2026年05月17日「あなたと一緒に歩く方」
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あなたと一緒に歩く方
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- 小宮山裕一 牧師
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詩編 23章1節~6節
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聖書の言葉
主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる。主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前であなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ、私の杯を満たされる。命あるかぎり恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう、日の続くかぎり。詩編 23章1節~6節
メッセージ
春は始まりの季節でありながら、新しい環境に身を置く者の心はかえって疲れを覚えることがある。慌ただしく日々を過ごすうちに、自分が本当はどこへ向かって歩んでいるのか見失いそうになる。そうした問いを抱えた者に向かって、主イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いておられる。この招きに応えた者が過ごす時のありさまを、三千年前にダビデが詠んだ詩編23編は鮮やかに描き出している。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。羊飼いの少年であったダビデは、羊が羊飼いなしには生きられないことを誰よりもよく知っていた。その彼が晩年に至り、自らの生涯を振り返って、主こそ自分の羊飼いであったと告白する。青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴うとは、単なる休憩ではなく、神が与えてくださる深い安らぎ。疲れ果てた魂はここで命を取り戻す。命なきところに命を吹き込まれる神の業がここに現れている。しかも主は、御名にふさわしく、すなわち人間の値打ちによるのではなく、神ご自身の御名のゆえに、私たちを正しい道へと導いてくださる。
ところが詩は四節に至って、語り口を一変させる。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。それまで「主は」と三人称で語られていた方が、ここでは「あなた」と直接呼びかけられる。語り方が変わるのは、ダビデが最も暗い場所に来たからである。光のもとでは見えにくい羊飼いの姿が、谷の闇のなかで初めてはっきりと見える。愛する者の死、病、挫折、人間関係のもつれ、自分自身への失望――そうした谷にあって、人は初めて、いつも共におられた方の存在に気づくのである。羊飼いの手には鞭と杖がある。獣と戦う鞭と、寄りかかれる杖と、その双方が同じ手に握られている。守るために戦ってくださる方が、同時に、疲れたときに身を寄せられる杖となってくださる。
では、ダビデが「あなた」と呼びかけたその方は誰なのか。ヨハネによる福音書10章で、主イエスは御自身を「良い羊飼い」と名乗られた。雇い人は狼を前に逃げ去るが、良い羊飼いは羊のために命を捨てる。詩編23編で死の陰の谷を共に歩くと約束された方は、口先で約束されたのではなく、御自分でその谷を歩き抜かれた。十字架こそ、主イエスにとっての死の陰の谷であった。何の罪もない御方が人々の罪を身代わりに負い、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれた。神から見放されたという極みの孤独を、この羊飼いは羊たちのために通り抜け、三日目に復活して死を打ち破ってくださった。だからこそ、人生の谷を歩む者は、もはや一人ではない。先に谷を歩き抜かれた方が、傷ついた足で隣を歩いてくださる。
詩編は、敵を前にしても主が食卓を整え、香油を注ぎ、杯を溢れさせてくださると歌い、そして最後にこう結ばれる。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」。「追う」という動詞は、本来、敵が誰かを追跡するときに用いられる激しい言葉である。時間に、責任に、不安に、過去の後悔に追われて生きていると感じる者にとって、この逆転は深い慰めをもたらす。羊飼いに従って生きる者を追いかけてくるのは、もはや敵ではなく、恵みと慈しみそのものなのである。そして最後には、帰るべき主の家が備えられている。「主は、わたしの羊飼い。わたしには、何も欠けることがない」。この古い告白を、共に歩んでくださる御方の御名――イエス・キリスト――と共に、今日、新たに口にすることが許されている。