2026年05月10日「つまずきの予告の中で」
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つまずきの予告の中で
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- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章31節~35節
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聖書の言葉
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。マタイによる福音書 26章31節~35節
メッセージ
最後の晩餐の食卓を囲み、賛美の歌をうたって弟子たちと共にオリーブ山へ向かわれる道の途中で、イエスは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と告げられた。聖餐の明るさと裏切りの闇とが同じ夜のうちに重なる。それは異常な事態ではなく、信仰者が生きる現実そのものである。
主はゼカリヤ書を引いて「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と語られた。本来のゼカリヤ書13章7節は剣に命じる形であるが、マタイはこれを「わたしが打つ」と父なる神を一人称の主語に置き換えている。十字架の出来事を最深のところで動かしていたのは、ユダの裏切りでもユダヤ指導者の悪意でもローマの暴力でもなく、父なる神ご自身の御業であった。良き羊飼いを、群れのために命を捨てる羊飼いを、神ご自身が打たれた。それは散らされた羊たち、すなわち我々のためである。弟子たちのつまずきも個々の弱さの問題に留まらず、神の大いなる御計画の中に既に織り込まれている。
しかし言葉はそこで終わらない。続けて「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と告げられる。つまずきの予告の直後に再会の約束が、十字架の予告の中に復活の確信が置かれている。ところがペトロはこの希望の一言を聞き逃し、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と叫ぶ。先回りして用意された恵みの言葉を取りこぼし、自分の決意ばかりを語り始めるその姿は、しばしば我々自身の姿でもある。
ペトロの過信は罪であった。だが「御一緒に死なねばならなくなっても」という言葉は並みの覚悟ではなく、後に殉教の死を遂げたという伝承が示す通り、彼は本気で命を賭けていた。それに比べ「人間ですから」「弱いものですから」と最初から逃げ道を用意する慎重さは、謙遜のようでいて何も賭けていない姿かもしれない。真剣さは量で測るものではなく、礼拝の座に着くこと自体に、長き歩みにも、若さにも、求道の問いにも、それぞれの真剣さがある。
真剣に主に賭けて生きるとき、人は時に他者を躓かせる。良かれと思った言葉が家族や身近な者を信仰から遠ざけたのではないかという自責を、長年抱えてきた者もあるだろう。だが何もせず誰の人生にも踏み込まない安全な歩みが信仰者の生き方であろうか。ペトロは真剣であったからこそ躓き、失敗し、泣き、立ち直って教会の礎となった。
そしてここに福音の中心がある。ペトロの過信も否認も涙も、弟子たちの逃亡も、すべては主が十字架の上で担ってくださった。人は自分の罪を自分で清算できず、自分の不完全さを自分で乗り越えることもできない。だがそれは絶望ではない。キリストがすべてを担っておられるからである。
「先に行く」といわれた良き羊飼いは群れの先頭を歩む。弟子たちが散らされ絶望のどん底に沈んだその先に、主はすでに立っておられる。しかもガリラヤは彼らが最初に召された生活の場、故郷であった。最初の出会いの場所で、主はもう一度彼らを待っておられる。この先回りは二重である。我々自身の躓きの先に主は待っておられ、同時に、我々が躓かせてしまったかもしれないあの人の先にも、主は既に先回りしておられる。口に出せぬ痛みを抱える者にこそ、復活の主の先在の恵みは差し向けられている。打たれた羊飼いは復活して、我々の先を歩んでおられる。それぞれのガリラヤで、主は待っておられるのである。