2026年04月19日「食卓の裏切り」
問い合わせ
食卓の裏切り
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章14節~25節
音声ファイル
聖書の言葉
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」マタイによる福音書 26章14節~25節
メッセージ
マタイによる福音書26章14節から25節は、過越の食事の席上でイエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げる場面である。この箇所が問いかけるのは、裏切りという出来事における加害者と被害者の位置についてである。人は誰かに傷つけられたとき、あるいは物事がうまくいかないとき、ほとんど反射的に被害者の側に身を置こうとする。信仰生活においても同様で、「礼拝に来ている、信じている、キリスト者として生きようとしている、だからわたしはキリストの側にいる」という自己理解は自然に生まれる。しかしこの箇所は、読む者を被害者の位置ではなく、加害者になりうる者の位置へと連れ出す。
過越の食事はユダヤ人にとって一年で最も重い夜の食卓であった。イエスはご自身に何が来るかを知りながら、その夜あえてこの食卓を設けられた。一緒に食べるということは、その人を信頼し、共に生きることを意味する。裏切る者がいることをすでに知りながら、イエスはなお食卓に着かれた。告発の言葉よりも先に、食卓の恵みがあった。
弟子たちはイエスの告知を聞いて「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる問いかける。この言葉には二つの感情が混在している。「わたしが裏切るはずがない」という抗議と、「ひょっとしてわたしかもしれない」という自分の弱さへの不安である。彼らはイエスに「違う、お前ではない」と言ってほしかった。しかしイエスは「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言うにとどめ、特定の名をあげなかった。過越の食事では全員が同じ器に手を浸す。この言葉は食卓にいた全員に向けられたものであり、「お前ではない」という安心は与えられない。
ユダだけが「先生、まさかわたしのことでは」と問う。他の弟子たちが「主よ」と呼んだのに対し、ユダは「先生」と言った。マタイ福音書においてこの呼びかけは外側の人々のものである。ユダはまだ食卓にいる。しかしその心はすでに外に出ていた。イエスはユダの問いに対して「それはあなたの言ったことだ」と静かに返すだけである。偽りを装って発した問いが、図らずも真実を語ってしまった。本当に正しいと確信していることなら、人はそれほど承認を必要としない。問わずにはいられなかったのは、本当は答えを知っていたからである。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」というイエスの言葉は、神の摂理と人間の責任が同時に本物であるという逆説を示している。神の御心の中で起きることだから責任は消えるとはならない。「仕方なかった」「状況がそうさせた」という言い訳もまた、自らを被害者の側に置く一形態である。
食事は続いた。イエスはユダを追い出さなかった。知りながら、なお共にいることを選ばれた。もし冷たく追い出されていたなら、ユダを例外的な存在として遠ざけることができた。しかしイエスが最後まで食卓を共にされるからこそ、問いはわたしたちのものになる。礼拝に来ている。しかし月曜から土曜、日々の生活の中で、何がわたしの主になっているか。言葉で、沈黙で、時間とお金の使い方で、わたしは何を「引き渡して」いないか。「まさかわたしのことでは」という問いは、否定してもらうための問いではなく、心の奥を照らし出す問いである。その光の中に立つこと、それがこの箇所の求めである。そして同時に、この食卓を設けられたのはイエスご自身であり、その招きは今もなお続いている。