2026年04月12日「王にふさわしい香り」
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王にふさわしい香り
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章6節~13節
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聖書の言葉
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」マタイによる福音書 26章6節~13節
メッセージ
王にふさわしい香り マタイによる福音書26章6節~13節 現代は「タイパ」「コスパ」という言葉に象徴されるとおり、食事も旅行も勉強も人間関係さえも費用対効果で測る時代である。信仰生活もまた、この物差しの前にさらされやすい。毎週の礼拝に費やされる時間、祈り、献金、奉仕̶ ̶それらはしばしば「もったいない」と見なされ、ときには信仰者自身の内にもその声が響く。こうした問いの中で、マタイによる福音書26章6節以下の記事が語りかけるものは深い。 イエスはベタニアの重い皮膚病の人シモンの家におられた。当時、重い皮膚病は律法によって「汚れている」とされ、共同体から隔離される病であった。人々が近づかない場所、社会から排除された人の家に、イエスはごく自然にいつもどおり食卓を囲んでおられる。十字架の影が濃くなる場面にあっても、弱い人々、排除された人々のそばに立つというその在り方は変わらない。 その食卓に、名もない一人の女が極めて高価な香油の入った石膏の壺を携えて近づき、イエスの頭に注ぎかけた。マルコの並行箇所によれば値は三百デナリオンを超え、労働者の年収に匹敵する。壺を割って注いだということは、一部を残して使うことができないということであり、彼女は惜しげもなくそのすべてを注ぎ尽くした。詩編45 編に歌われる「ミルラ、アロエ、シナモンのかおり」に包まれる王の即位の詩の響きがここにある。「メシア」とは「油注がれた者」の意であり、この注ぎの中には、この方こそまことの王、メシアであるという告白が込められていた。 弟子たちは憤慨し、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言った。資源の有効活用、弱者への配慮という点で、その言い分は倫理的に正しく見える。しかしイエスはこれを「良いこと」、原語で「カロン・エルゴン」、すなわち「美しい業」と呼ばれた。弟子たちの尺度では「無駄」であったものが、イエスの尺度では「美しい」のである。ここに決定的な価値の転換がある。 さらにイエスは、「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と告げられる。女性自身がその意味を自覚していたかは定かでない。しかしイエスは、この行為の中にご自身の死と埋葬の意味を読み取られた。詩編45 編が歌った王の油注ぎは、ここでは十字架へ向かう王への油注ぎとなる。栄光の即位ではなく死への旅立ち、それこそがまことのメシアの道であった。 続けてイエスは、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と宣言される。この行為が福音そのものと切り離せないからである。福音とは、神の御子が私たちのためにすべてを注ぎ出してくださったという知らせである。キリストはご自身の命を惜しまず、十字架の上で注ぎ尽くしてくださった。名もない女の自己献身は、イエスご自身の自己献身と響き合っており、それゆえこの業は福音と共に時代を超えて語り伝えられる。 ご自身のすべてを注ぎ出して愛してくださった方の前では、損得の計算は意味をなさない。礼拝も祈りも奉仕も献金も、対効果の物差しには乗らない。それでよい。むしろ、ただ感謝と喜びをもって自分自身を差し出すことこそ、復活の主の前に立つ者にふさわしい応答である。女性の香油はやがて流れ落ち、かおりも消えた。しかしイエスはそれを永遠に記念すると言われた。「無駄」と見なされる献げものを、主は受け取り、「美しい業」と呼んでくださる。あの日シモンの家を満たしたかおりは、今日もなお、礼拝