隠された命
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書 コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節
イースターの朝、私たちは復活の主イエス・キリストを信じている。しかし、復活の主をこの目で見たわけではなく、空の墓を確認したわけでもない。二千年前の出来事を、聖書の証言と聖霊の導きによって信じているにすぎない。世界には依然として戦争、災害、病、愛する者の喪失がある。復活の力はどこに働いているのか——そう問いたくなることがある。
パウロは「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と語る。復活を祝う日に「隠されている」とは意外な言葉である。しかし、この「隠されている」という表現の中にこそ、イースターの最も深い恵みがある。
出エジプト記33章で、モーセは神に「あなたの栄光をお示しください」と願った。神と最も近しく歩んだモーセでさえ、なおもっと深く神を知りたいと渇望した。しかし神は「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできない」と答えられた。神の栄光はあまりに圧倒的で、人間がそのまま受け止めれば生きていられないほどだからである。だが神はモーセの願いを退けたのではなかった。岩の裂け目にモーセを入れ、御手で覆い、通り過ぎた後に御姿の「後ろ」を見せてくださった。隠すことは拒絶ではなく、守ることであった。本当に大切なものは、人が受け取れる形で、受け取れる時に与えられるのである。
パウロの言葉はこのモーセの経験と同じ構造を持つ。復活のキリストを今この目で直接見ていないのは、命がないからではなく、命がキリストと共に神のうちに確かに守られているからである。「隠されている」と訳されるギリシア語は完了形であり、「あの時確かに隠されて、今もなおそのままである」という意味を持つ。一時的に見えなくなっているのではなく、しっかりと守られ続けている。同時に、神は隠す方であると同時に現す方でもある。だからパウロは「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と約束する。隠されているものは永遠に隠されたままではなく、「ここぞ」という時に現される。
パウロがここで語っている基盤は洗礼の出来事である。洗礼とは単なる入会の儀式ではなく、キリストの死と復活にあずかることである。罪に死に、新しい命に生きる。水の中に沈むことは終わりではなく始まりであり、死は命への通路である。洗礼において、すでにキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた。その命は今、神のうちに隠されている。
私たちは今、隠された命を生きている。信仰の実りが見えない時もある。しかし、神がモーセを岩の裂け目に入れて守られたように、私たちの命はキリストと共に神のうちに守られている。見えないのは失われたからではなく、守られているからである。やがてキリストと共に栄光に包まれて現れる——その約束の希望をもって、復活の朝を祝う。