2026年03月22日「顔を上げて歩き出す」
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顔を上げて歩き出す
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 13章10節~17節
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聖書の言葉
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。ルカによる福音書 13章10節~17節
メッセージ
ルカ13章に登場する女性は、十八年間腰が曲がったまま「どうしても伸ばすことができなかった」。見える世界は地面と人の足元だけ。それはやがて日常になり、自分はこういうものだと受け入れるようになる。イザヤ書40章の「わたしの道は主に隠されている」「神に忘れられた」という嘆きは、この女性の声でもある。伝道礼拝の会衆の中にも、何かに縛られて下を向いて生きている人がいるだろう。そこに聖書は語りかける。
イエスの宣教は、安息日の会堂でイザヤ書を朗読することから始まった。「捕らわれている人に解放を、圧迫されている人を自由にする」という宣言である。そして今、同じように安息日の会堂で、イエスはこの女性を「見た」。注目すべきは、彼女はイエスに何も求めていないということだ。ただそこにいた。しかしイエスの目は、社会的に不可視な存在となっていた彼女を見つけた。ある聖書学者が指摘するように、「イエスが見た」というこの一見平凡な記述は、見えない存在とされていた人が見える存在として現れたことを意味する。しかもイエスは自分のもとに彼女を呼び寄せた。会堂の中心に立たせた。それ自体が共同体への回復の象徴であり、解放の始まりだった。
「あなたは束縛から解き放たれた」というイエスの宣言は、完了形である。すでに解放は成立している。イエスの言葉が新しい現実を創り出す。女性はたちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。イザヤが語った「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」という約束が、ここで一人の女性の体において実現した。
会堂の責任者は「安息日はいけない」と反対する。合理的に聞こえる。しかしイエスは「偽善」と呼ぶ。動物の縄は安息日にも解くのに、アブラハムの娘を解かないのか。「解く」という同じ言葉を用いたユーモアの中に、根本的な問いがある。神は人を縛ったままにしておくことを望むのか、それとも今日、解き放つことを望むのか。イエスが宣教の最初に語った「今日、実現した」という言葉がここで響く。
しかし、なぜイエスの言葉にはそのような力があるのか。この出来事はエルサレムへの旅の途中で起きている。十字架へ向かう歩みの中で起きている。この女性の顔が上がったのは、キリストの顔が十字架において下に向けられたからである。わたしたちの束縛が解かれるのは、キリストが束縛されたからである。イエスの「解き放たれた」という言葉に力があるのは、それがご自分のいのちをかけた宣言だからだ。名もなきこの女性を「アブラハムの娘」と呼び、神の約束の中に回復させることができたのは、十字架でいのちを注ぎ出すお方だからこそである。
イザヤは「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」と語った。その力はわたしたちの内側からではなく、外から、上から、キリストから来る。あなたを見つけ、呼び寄せ、解き放ってくださるお方の言葉が、今日ここで語られている。