2026年02月08日「忠実でありなさい」
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忠実でありなさい
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 24章45節~51節
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聖書の言葉
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイによる福音書 24章45節~51節
メッセージ
主イエスはマタイによる福音書において、神殿の崩壊や人の子の到来といった壮大な
終末の光景を語られた後、「目を覚ましていなさい」と弟子たちに促された。その具体的
な姿として示されたのが、主人が不在の間、他の使用人たちに時間どおり食事を与える役
目を任された僕のたとえである。私たちは終末への備えと聞くと、何か劇的な決断や英雄
的な行いを想像しがちだが、主がここで描かれたのは驚くほど日常的な光景であった。大
きな屋敷で淡々と食事を配るという地味な務めの中にこそ、主イエスが教えようとされた
「忠実さ」の核心がある。終末への備えとは、特別な場所で特別なことをすることではな
く、日々の生活のただ中にある誠実な歩みのことなのである。
このたとえには、同じ一人の僕がなり得る二つの可能性が提示されている。一つは忠
実な僕であり、もう一つは悪い僕である。悪い僕の転落は、誰にも聞こえない心の中の小
さなつぶやきから始まった。「主人は遅い」というその思いは、明確な不信仰というより
は、じわじわと心に根を下ろしていく静かな疑念であった。この「主人は遅い」という不
信は、共同体の内側で互いを責め合う「仲間を殴る」行為と、信仰の固有性を見失い世の
流れに合わせる「酒飲みと共に楽しむ」行為へとつながっていく。主への信頼が揺らぐと
き、私たちの人間関係も歩みの方向性も変質してしまうのである。
一方で、忠実な僕がしていたのは「時間どおりに食事を与える」ことであった。ここ
でいう「時間どおり」とは、単なる機械的な作業ではなく、相手の状態を見極めて必要な
糧を届ける配慮ある奉仕を意味している。また、その食事は僕自身のものではなく、主人
から委ねられたものであった。忠実さとは、自分の力で立派なことを成し遂げることでは
なく、主から託されたものを、主が愛される人々に丁寧に届け続ける姿勢を指す。毎週の
礼拝、祈り、隣人への声掛けといった教会の地味な営みの繰り返しこそが、主の目に「幸
い」と映るのである。
さらに重要なのは、ここで語られる「忠実(ピストス)」の原型が、父なる神に対し
十字架の死に至るまで従順であられた主イエス・キリスト御自身にあるという点である。
「忠実でありなさい」という呼びかけは、自力の努力を求める律法ではなく、キリストの
真実に生かされていることへの応答という福音の招きである。たとえ私たちが誠実さを欠
くときでも、キリストは常に真実であられる。私たちの小さな忠実さは、このキリストの
信実という確かな土台に支えられているからこそ、絶望することなく継続できるのであ
る。
「忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」。この問いは、聴く者一人ひとりに向
けられた招きである。将来への不安や状況の変化に揺さぶられることがあっても、私たち
は主から委ねられた日々の務めを果たし続ける。キリストの信実に根ざし、それぞれの場
所に置かれた隣人へ今日必要な糧を届けていく。その温かく確かな日常の一歩一歩が、主
が約束された大きな恵みへとつながる終末的な歩みとなるのである。私たちはこの主の招
きに応え、キリストの真実に支えられながら、今週もそれぞれの場所へと遣わされていき
たい。