2026年02月01日「目を覚ましていなさい」
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目を覚ましていなさい
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 24章36節~44節
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聖書の言葉
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイによる福音書 24章36節~44節
メッセージ
マタイ24章36節以降では、主イエスの視線が神殿崩壊という歴史的出来事から、歴史そのものが幕を閉じる「その日」へと移される。主は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と宣言された。再臨の時は、御子ご自身さえも父なる神の主権に委ねられている。歴史の始まりから終わりまでを支配し、その時を定められるのは万物の創造主である父なる神ご自身である。
主イエスは三つのたとえを用いて「目を覚ましていること」の真の意味を教えられる。
第一はノアの時代の教訓である。洪水前の人々は「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」していた。これらは神が許された日常の営みだが、彼らの罪は日常に埋没してしまったことにあった。目の前の生活があまりに順調だったため、ノアを通して語られる神の警告を非現実的なものとして退け、神の言葉よりも自分たちの経験則と日常の安定を信頼した。これが「霊的な眠り」である。現代の私たちも忙しさの中で神の声が聞こえなくなり、神を覆い隠す幕になってしまう危険がある。
第二は連れて行かれる者と残される者の姿である。同じ畑で働き、同じ臼を使う二人の外見上の区別はつかない。しかし神の目からは決定的な断絶がある。一人はただ生活のために働き、もう一人は同じ仕事をしながらも心が神に向いている。「その日」が来た時、隠された内面の違いが永遠の運命の違いとなって露わになる。キリスト教信仰は世のただ中で隣人と同じように働き生活することを求めるが、「この世にあってこの世のものではない」。外見は同じでも向いている方向が違う、その違いを持って生きることがクリスチャンの歩みである。
第三は泥棒と家の主人のたとえである。主の来臨は予告なしに思いがけない時に来る。「目を覚ましている」とは不眠不休の緊張状態ではなく、いつ主人が帰ってきても恥ずかしくない生き方を常日頃から継続することである。その時を知らないことは不安にさせるための神の意地悪ではなく、「今日」という一日をかけがえのない時として誠実に生きるための恵みである。
帰って来られる方は見知らぬ審判者ではなく、「自分の主」イエス・キリストである。目を覚ましているとは、この愛する主との交わりを保ち続けることであり、日々の忙しさの中で立ち止まって主を見上げ、心の奥底で「主よ、すべてはあなたの御手の中にあります」と告白し続けることである。今日という日が主から与えられた恵みの日であることを感謝し、誠実に愛を持って歩むことが求められている。