2025年12月28日「キリストを伝える」
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キリストを伝える
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- 小宮山裕一 牧師
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使徒言行録 9章26節~31節
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聖書の言葉
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。それを知ったきょうだいたちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ送り出した。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。使徒言行録 9章26節~31節
メッセージ
一連の「ヨセフ・シリーズ」。今回は三回目であり、マリアの夫ヨセフ、アリマタヤのヨセフに続いて、バルナバを取り上げる。バルナバの本名はヨセフであり、使徒たちから「慰めの子」というあだ名で呼ばれるようになった人物である。
サウロ(後のパウロ)はかつてキリスト者を迫害する急先鋒であった。ステファノの処刑に同意し、家々を荒らし回って信者を牢に送り込んでいた。ところがダマスコ途上で復活の主に出会い、回心した。しかしエルサレム教会は、この知らせを簡単には信じられなかった。迫害の傷はまだ生々しく、サウロが仲間に加わろうとしても、皆は信じないで恐れた。この恐れを責めることはできない。サウロは孤立し、どこにも居場所がなかった。
ここでバルナバが登場する。彼は三つのことをした。第一に、サウロを「連れて」行った。「エピランバノマイ」という語は「手を取る」というニュアンスを持つ。誰もが遠ざかる中で、バルナバだけがサウロに近づき、その手をつかんだ。第二に、使徒たちのところへ「案内」した。疑う者たちと疑われる者との間に立ち、橋渡しをした。第三に、サウロの回心と宣教を「説明」した。ここで重要なのは、バルナバが説明したのはサウロの能力や人柄ではなく、サウロが「主に出会い、主に語りかけられた」という事実だったことである。バルナバは、サウロの中に起こったキリストの御業を証言したのであり、これこそ「キリストを伝える」ということの一つの形である。
バルナバはキプロス島出身のレビ人で、自分の畑を売って教会に献げた人物である。その生き方があまりにも「慰め」そのものだったので、本名よりあだ名で知られるようになった。彼はその後もアンティオキアに派遣され、さらにタルソスに退いていたサウロを探し出して連れてきた。二人は一年間共に教え、やがて第一回宣教旅行に出発する。しかし記述の中心は次第にパウロへと移り、歴史に名を残したのはパウロの方であった。
マリアの夫、アリマタヤのヨセフ、バルナバ。三人のヨセフはいずれも脇役である。佐藤全弘先生は、歴史という劇の監督は神であり、主役も脇役も端役もすべてが「この一回限りの神の劇中に、無くてはならぬ大切な一役」であると述べている。神の栄光は私たちの生き方に依存している。ヨセフがいなければ幼子イエスはヘロデの手を逃れられず、アリマタヤのヨセフがいなければ主の体は放置され、バルナバがいなければパウロは教会の外に取り残されていたかもしれない。
「キリストを伝える」とは、説教壇に立つことでも神学的に難しいことを語ることでもない。キリストがなさったこと、今もなさっていることを、具体的な人間のところで証言することである。誰かの人生の中に神の働きを見出し、それを他の人に伝える。孤立している人の手を取り、橋を架ける。大きな働きでなくてよい。私たちもバルナバのように、キリストを伝える者として用いられたい。