2025年12月21日「クリスマス―キリストの十字架―」
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クリスマス―キリストの十字架―
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 15章42節~47節
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聖書の言葉
既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。マルコによる福音書 15章42節~47節
メッセージ
マルコによる福音書15章はキリストの十字架と葬りが描かれている。クリスマスにあえてマルコ15章42~47節、十字架の後に主イエスの遺体が墓に納められる場面を読むのは、降誕が十字架へ向かう歩みの始まりであり、「神が人の闇に降りて来られた」という良い知らせの中心がここに現れるからである。かつてある宣教師が「キリストは死ぬためにこの世に来られた」と語っていたのを聞いた。人は生きるために生まれてくる。しかしキリストは死ぬためにこの世界に生まれてこられた。それは冷たい標語ではなく、飼い葉桶の光が十字架と復活の光によって深まるという福音の現実を指している。
出来事は安息日前日の夕べ、「準備の日」に起こる。弟子は散り、希望がしぼむ時間帯で、遺体をそのままにできない切迫の中、動いたのがアリマタヤ出身のヨセフである。彼は地位ある議員でありながら、「神の国を待ち望み」、勇気を出してピラトに願い出る。信仰が内面に留まらず、恐れを抱えたまま行動へ移る瞬間である。ピラトが百人隊長に死を確認したことは、主の死が比喩でなく現実であったことを示す。
ここで「ヨセフ」という名に注目したい。この名は、救いの始まりにも終わりにも立つ。マリアの夫ヨセフが誕生の場に、アリマタヤのヨセフが埋葬の場にいるのは、神が最初から最後まで救いを備えることのしるしである。創世記のヨセフの名が「恥を取り去る」と「加える」を響かせるように、神は御子を私たちに与え、十字架で取り去られ、復活で再び与える。さらに、十字架という恥辱の場所に手を伸ばす二人のヨセフの姿は、神が恥を見ないふりで消すのではなく、恥のただ中に降りて救いを現すことを語る。
ヨセフが買った亜麻布で主の体を包む場面は、降誕の「布にくるまれた幼子」と響き合う。布にくるまれるのは生まれたばかりの時と死の時。これは無力な時ということ。生まれる時も死ぬ時も、最も無力になる瞬間を神の子が通られたのである。同時に、布は守りと尊厳のしるしでもあり、丁寧な埋葬は主を主として敬う礼拝の行為となる。主は生まれた時も宿る場所が乏しく、死んだ時も自分の墓を持たず他者の墓に納められ、私たちの貧しさと不安定さの中に住まわれた。墓口の石は終わりに見えるが、のちに復活の朝に転がされる石となり、神が閉ざされた所から道を開く方であることを示す。主が安息日を墓の中で迎えたことは、救いの業が完成へ向かい、沈黙と「待つ時間」の中でも神が働いておられることを教える。婦人たちが納められた場所を見届けたのも、暗い夕べに備えられた証人である。
私たちにも布に包まれるような無力の時があるが、主はまさにその場所に来られた。弱さは見捨てられた印ではなく、神が近づかれる場所となり得る。そして復活の朝、墓に亜麻布が残されたように、無力さは最後の言葉ではなく通過点である。心が重いクリスマスを迎える人にも、布に包まれた主は近くにおられる。御子が私たちの恥を取り去り、ご自身を人生に加えてくださることこそ、最も確かな贈り物である。