待つ信仰―預言者たちー
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書 ハバクク書 12章34節~56節
わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」ハバクク書 12章34節~56節
アドベントクランツの4 本のろうそくにはそれぞれ意味があり、2 本目は預言者たちを象徴する。今日は預言者ハバククの言葉に耳を傾け、預言者たちの「待つ信仰」とはどのようなものであったか。
ハバククが活動したのは紀元前7 世紀末、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされようとしていた時代である。不正と暴虐がはびこる中、ハバククは神に訴えた。しかし神の答えは予想を超えるものだった。神はユダよりもさらに残虐なバビロン人を用いてユダを裁くと告げられた。ハバククは困惑し、大胆にも神に問いかける。ハバクク書の特徴は、この神と預言者の対話形式にある。
2 章は、ハバククが神の答えを待つ場面から始まる。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(2:1)。ハバククは城壁の上に立つ歩哨のように、目を凝らし耳を澄まして神からの言葉を待ち望む。これはただぼんやりと待つのではなく、能動的で積極的な待ち方である。さらにハバククは神が必ず答えてくださることを確信している。神は沈黙したままではない。その信頼があるからこそ待つことができる。アドベントの「待つ」とは、神が語り応えてくださるという期待をもって待つことである。
主はハバククに答えられた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ」(2:2)。この「板」はシナイ山で十戒が記された石の板を思い起こさせる。ユダヤの伝統では「律法の613 の命令がハバククによって一つに凝縮された」とさえ言われた。続いて神は言われる。「定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(2:3)。この幻は終末的な成就を指している。ヘブライ書10 章37 節ではこの箇所が「来るべき方」という人格的表現で引用される。預言者たちが待ち望んだのは、単なる出来事ではなく「来るべきお方」、メシアだった。
そして神は幻の核心を告げる。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)。高慢な者とは自分自身に頼り自分の力で生きようとする者であり、その心は歪んでいる。当時の文脈ではバビロン人を指していた。それに対し「義人は信仰によって生きる」。この言葉は後にパウロがローマ書1 章17 節で引用し、信仰による義認の教えを展開した。創世記15 章6 節でアブラハムが義とされたのは行いによってではなく神を信じたことによってであり、ハバククの言葉はこれと響き合う。預言者たちは約束の成就を見ないままでも「信仰によって生きた」。見えないものを確信し、まだ実現していない約束を信じて生きる。それが預言者たちの「待つ信仰」だった。
預言者たちは神の言葉を待ち望み、神は預言者たちを通して語り続けた。そしてついに約束が成就する時が来た。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)。神の言葉そのものが人となられた。神は遠くから語りかけるだけでなく、私たちのただ中に来てくださった。預言者たちは幻や夢や託宣を通して神と対話したが、今やキリストが私たちと同じ地平に立ち、顔と顔を合わせて語り合ってくださる。これは対話の究極的成就であり、ベツレヘムの馬小屋で成就したクリスマスの出来事である。