2025年11月30日「待つ信仰―アブラハムの生涯」

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待つ信仰―アブラハムの生涯

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
創世記 12章1節~5節

音声ファイル

聖書の言葉

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。創世記 12章1節~5節

メッセージ

アドベント第一主日を迎え、教会の新しい一年が始まった。アドベントクランツの四本のろうそくには、「希望・平和・喜び・愛」という一般的な解釈のほかに、救いの歴史をたどる解釈がある。一本目は族長アブラハム、二本目は預言者、三本目は洗礼者ヨハネ、四本目はマリアを表し、旧約から新約へ、約束から成就へと向かう道筋を示す。今年のアドベントはこの歴史に沿って「待つ」ことの意味を問うていく。第一週の主題はアブラハムである。

現代は「待つ」ことが極めて困難な時代である。スマートフォンがあれば知りたいことは即座に判明し、動画は倍速で視聴され、物流は翌日配送が当たり前となった。待つことは「非効率」であり「時間の無駄」と見なされる。英国の神学者ポーラ・グッダーは、こうした時代において、アドベントが本来の「待つ季節」としての意味を失い、クリスマスというイベントを先取りして消費するだけの期間になっていると鋭く指摘する。彼女は自身の妊娠の経験から、「待つ」時間は決して空虚なものではなく、新しい命と親としての自覚が育まれる不可欠なプロセスであると説く。「未来を味わい、現在に留まり、待つという行為に意味を見出す」こと。これこそが積極的な「待つ」姿勢であり、アドベントはそれを学ぶ時なのである。

聖書のアブラハムもまた、待つ人であった。彼は七十五歳で神の召命を受け、約束の子イサクが与えられる百歳まで、実に二十五年間も待ち続けた。「わたしが示す地に行きなさい」という神の言葉には、具体的な行き先も、約束成就の時期も示されていなかった。どこへ向かい、いつまで待てばよいのか分からない。常識的に考えれば、これほど不確かで不安な旅路はないだろう。しかし、アブラハムは待ち続けた。

彼が待つことができた理由は、彼自身の忍耐力や資質にあるのではない。それは、「約束が来た」ことにある。神からの言葉が一方的に到来したからこそ、彼は応答して待つことができたのだ。もし言葉がなければ、それは単なる「放置」であり、不安と虚無の時間に過ぎない。いつ終わるとも知れない時間をただ過ごすことは、人間にとって耐え難い苦痛である。しかし、神から「わたしはあなたを祝福する」という約束の言葉が与えられたとき、その時間は意味のある「待機」へと変質する。言葉があるかないかで、同じ状況が全く違う意味を持つのだ。アブラハムには神の言葉があった。だからこそ、その二十五年間は単なる老化の時間ではなく、信仰による「待つ」時間となったのである。

この構造は現代を生きる私たちにも当てはまる。私たちには、神の子キリストが人となって来られたという過去の事実と、再び来られるという未来の約束が与えられている。約束がすでに来ているからこそ、私たちは待つことができるのだ。グッダーが言うように、待つことと来ることは不可分である。何も来ていないところには、待つことは生まれない。

待つとは、神に期待することである。期待という言葉が示す通り、それは信頼を持って待ち望む姿勢だ。今、答えが見えず、変化が訪れず、ただ待つしかないような状況にあったとしても、その時間は決して空虚ではない。妊娠中の母の胎内で子が育つように、見えないところで神は働かれ、私たちの内に信仰や希望、愛を育んでおられる。どこで待てばよいかわからなくても、いつまで待てばよいかわからなくても、私たちは放置されているのではない。神の約束の中にいるのだ。