2025年11月23日「互いにもてなしあう教会」
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互いにもてなしあう教会
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ペトロの手紙一 4章7節~11節
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聖書の言葉
万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。ペトロの手紙一 4章7節~11節
メッセージ
この一年、私たちの教会は「互いにもてなし合う教会」という年間テーマを掲げ、歩みを進めてきた。その指針となった御言葉は、ペトロの手紙一の4章である。「万物の終わりが迫っています」。冒頭のこの言葉は、決して恐怖を煽る脅しではない。それは、神の救いの計画が完成へと向かう希望の宣言であり、ゴールが見えているからこそ、今なすべきことの優先順位を明確にする道しるべである。
ペトロが語る「もてなし(フィロクセニア)」とは、単に親しい友人と茶を飲み交わすことではない。「見知らぬ者、旅人への愛」を意味するこの言葉は、自分とは異なる他者を、自らの生活と心の領域へと招き入れる、勇気を伴う信仰の決断を指す。この一年、私たちが悩み、祈り、汗を流して積み重ねてきた歩みの中に、神は確かに三つの恵みの領域を示された。
第一に、もてなしは真実な「交わり(コイノニア)」を生み出した。聖書が語る交わりとは、単なる仲良しの集まりではない。キリストの血によって贖われた者たちが、互いの存在を喜び、重荷を負い合う霊的な連帯である。「愛は多くの罪を覆う」とペトロは語る。人が集えば摩擦や誤解は避けられない。しかし、もてなしの精神は、相手の欠けをあげつらうのではなく、その欠けごと相手を受け入れる愛の業となる。今年、愛餐会や礼拝後のお茶の交わりを通して、私たちは互いのために時間と場所を提供し合った。「不平を言わずにもてなし合う」ことは容易ではないが、私たちが互いを受け入れる時、そこには私たちを先立って受け入れてくださったキリストご自身が臨在されるのである。この一年、私たちの間に命の通い合う温かな血流があったことを、私は確信する。
第二に、私たちは「異文化との出会い」という新しい地平に立たされた。今年、外国にルーツを持つ方々が礼拝に参加された。私たちの教会にとって象徴的な出来事であった。言葉の壁、文化の違いというハードルは確かに高い。しかし、初代教会の信徒たちが旅人をもてなしたように、私たちもまた、未知なる隣人を迎える冒険へと招かれている。教会とは本質的に普遍的なものであり、あらゆる民族、言葉の者が神を賛美する幻へと向かう共同体である。この出会いは、閉ざされた内輪の交わりから、より広い神の国へと私たちが殻を破るための訓練であり、神からの宿題である。言葉がたどたどしくとも、笑顔と歓迎の心、そしてキリストにある愛と工夫をもって接する時、聖霊は壁を越えて働かれる。
第三に、「公同教会への奉仕」としての広がりである。中会の行事や研修会のために会堂を提供し、労を惜しまず奉仕したこと、これもまた広義の「もてなし」である。「神のさまざまな恵みの善い管理者」として、私たちは個人の才能だけでなく、会堂や備品というリソースをも神からの賜物としてお預かりしている。自分たちの教会の益のみを求めるのではなく、キリストの体全体のために自らを差し出す姿勢こそが、教会の健やかさを保つ秘訣である。水は流れることで清さを保つように、教会もまた外に向かって開き、仕えることで霊性が守られる。外部の方々からの「温かい教会だ」という証しは、私たちの誇りではなく、ただ神の栄光のために用いられるべき果実である。
「万物の終わり」を見据える私たちは、やがて来る完全な祝宴の時まで、この地上で小さなもてなしの稽古を続ける者である。私たちの不完全な歩み、足りない愛さえも、主は十字架の血潮によって覆い、用いてくださる。すべての奉仕、すべてのもてなしの究極の目的は、私たち人間の満足ではなく、イエス・キリストを通して神が栄光をお受けになることにある。