2025年11月16日「忍耐への励まし」
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忍耐への励まし
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 24章3節~14節
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聖書の言葉
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」マタイによる福音書 24章3節~14節
メッセージ
弟子たちはオリーブ山で、イエスに「そのことはいつ起こるのか」「世の終わるときにはどんな徴があるのか」と問いかけた。この問いの背景には、イエスによるエルサレム神殿崩壊の予告がある。弟子たちにとって、神殿は単なる建造物ではなく、神の臨在の座であり、世界秩序の象徴であった。神殿が崩れるという予告は、世界そのものが崩壊する恐怖と結びついていたのである。彼らの問いは、終末への切迫した不安から発せられたものであった。
しかし、イエスはこの問いに対し、「いつ」という時期への回答ではなく、「いかに生きるか」という姿勢へと弟子たちの関心を向け変える。「人に惑わされないように気をつけなさい」「慌ててはいけない」という警告は、終わりの時に対する正しい備えが、恐怖におののくことではなく、日々の信仰的生存にあることを示唆している。イエスは戦争や飢饉、地震について語るが、それらは「産みの苦しみの始まり」に過ぎず、まだ世の終わりではないと明言する。世界情勢の悪化や自然災害を見聞きするとき、人々は直ちに「終わりの始まり」を連想しがちである。だが、「まだ終わりではない」というイエスの言葉は、不安に駆られる者への逆説的な慰めであり、冷静さを保つための錨となる。
イエスが真に警告するのは、外部的な災害よりも、信仰共同体の内部で起こる霊的な危機である。9節以降に語られる「苦しみ」「憎しみ」「裏切り」は、マタイの教会が実際に直面していた現実であり、いつの時代の教会も経験しうる試練である。特に「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」という言葉は深刻である。迫害という外部からの攻撃以上に、教会内部での不信、裏切り、偽預言者の出現こそが、信仰を根底から揺るがす。愛が冷え、神の国のために無用な者となってしまうことこそ、恐れるべき事態である。このような過酷な状況の中で、イエスは「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と宣言する。ここで用いられている「耐え忍ぶ(ヒュポメノー)」というギリシア語は、単に受動的に我慢することを意味しない。それは「下に留まる」という意味であり、重荷の下にあっても逃げ出さず、信仰の場に踏みとどまり続けるという能動的な姿勢を指す。「最後まで」とは、期間の長さではなく、必要な限り、主が来られるその時まで、という意味である。
14節において、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」とある。注目すべきは、ここで語られる動詞が受動態である点だ。「苦しめられる」「憎まれる」という受動的な苦難の中で、福音もまた神の主権によって「宣べ伝えられる」のである。我々の忍耐を通して、福音が前進する。迫害や困難の中で信仰を守り抜く教会の存在そのものが、言葉を超えた説教として機能するのである。
ウェストミンスター信仰告白が示すように、この箇所は最終的にはキリストの再臨と最後の審判を指し示している。その時がいつであるかは隠されているが、約束は明白である。最後まで踏みとどまる者は救われる。我々に求められているのは、終わりの日を恐怖して待つことではなく、今日という日に、信仰の場から逃げず、愛することをやめず、礼拝を捧げ続けることである。その忍耐の歩みこそが、やがて来る栄光の日に繋がっているのである。