2025年11月09日「神殿の終わり」

問い合わせ

日本キリスト改革派 綱島教会のホームページへ戻る

音声ファイル

聖書の言葉

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」マタイによる福音書 23章37節~24章2節

メッセージ

マタイ23章37節から24章2節は、主イエスの公生涯が事実上終わりを告げる場面である。イエスは神殿を舞台としたユダヤの指導者たちとの最後の対決の後、神殿を出て行かれ、地上におられる間、二度とそこに戻ることはなかった。

「エルサレム、エルサレム」という二重の呼びかけには、神の痛切なる思いが込められている。「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。ここには神の意志(単数)と人間の意志(複数)の激しい衝突がある。神の側にあるのは御翼の陰に集めようとする熱烈な意志であり、人間の側にあるのは神の招きを拒絶する頑なな意志だ。愛なる神がその愛を拒絶されること、それこそが神にとっての最大の痛みである。痛みが過度になると破壊や自暴自棄に陥ることがある。しかし神は、この痛みゆえに愛をあきらめるのではなく、自暴自棄になるのでもなく、御子が十字架において罪を自ら引き受け、人間の頑なさを打ち破る道を選ばれた。この神の自由な決断と人間とは全くことなる姿。これこそ神のきよさであり、まったき自由による救いの働きである。

神の招きが最終的に拒絶されたとき、イエスは宣告された。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」。もはや「わたしの父の家」ではなく「お前たちの家」と呼ばれた神殿は、霊的に荒野となった。物理的な崩壊はまだ起こっていないが、イエスが宣告された瞬間、その神殿は霊的に空虚となった。霊的な荒廃は物理的な破壊に先行する。そしてイエスが神殿から出て行かれた瞬間、神殿の終わりは霊的に確定した。紀元70年の破壊は、すでに霊的に死んでいた建物の物理的な葬儀に過ぎない。

恐ろしいのは、この厳粛な瞬間に弟子たちが神殿の壮麗な建物を指さしたことである。イエスは霊的な荒廃を見ておられたが、弟子たちは目に見える物理的な建物を見ていた。これは私たちの姿でもある。教会の大きさ、歴史、功績に安心を求めていないだろうか。

しかし神殿の終わりは絶望ではない。イエスご自身が新しいまことの神殿である。物理的な神殿が終わりを告げたのは、十字架にかかり復活されたキリストによってのみ神と出会う時代が来たからである。私たちに残された道は、ただキリストを見つめ続けることである。私たちが求めるべき真の居心地の良さとは、この世の安心感ではなく、十字架の贖いによって与えられる罪の赦しのいこいである。神殿の終わりとは、目に見えるものに頼る古い私たちの終わりであり、唯一崩れることのない土台であるキリストへと新しく集め直される始まりである。この世のものはすべて崩れ落ちるが、十字架につけられたキリストという岩の上に立つ者は、決して揺らぐことがない。