2025年11月02日「外側と内側」

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聖書の言葉

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」マタイによる福音書 23章23節~36節

メッセージ

イエスは「不幸だ、偽善者よ!」と律法学者とファリサイ派の人々を厳しく断罪した。この告発の対象は社会の罪人ではなく、最も尊敬され、神に熱心で正しいとされた人々、つまり今日で言えば模範的な信徒や牧師たちだった。ここにいるのは飼い葉桶の幼子でも山上で「幸いだ」と語った柔和な教師でもなく、神の怒りに燃える獅子のようなキリストである。

イエスは「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」と告発する。私たちは日曜日に外見を整え、柔和な笑顔で挨拶を交わし、人前に差し出す杯の外側を美しく磨き上げる。しかしイエスは誰にも見せない内側を見抜いている。その内側は人から認められたい強欲、人から良く思われたい強欲、自分の思い通りに人を動かしたい強欲、そして神すらも自分の都合良く利用しようとする恐るべき放縦で満ちている。さらにイエスは「白く塗った墓に似ている」と言う。当時、墓を白く塗ったのは美しく見せるためではなく、「危険!触れるな!死の汚れがあるぞ!」という警告サインだった。つまり私たちの立派な信仰や模範的な行い、美しい言葉が、内側が死んだままなら、かえって人々を神から遠ざける警告サインになっているという告発である。私たちの正しさに触れた人々は、神の命ではなく死の冷たさと汚れを感じ取って神から逃げ出しているかもしれない。

偽善者という言葉で思い出したいのは渡邉善太牧師(1885年―1978年)は「教会は偽善者を出すところだ」と語った。この地上で聖なる神の燃え盛る光の御前に一切のごまかしなく裸で立たされる場所は教会しかない、という意味。その聖なる神の光に照らされる時、どんな立派な行いにも「自分のため」という自己中心の汚れ、「人によく見られたい」という不純な動機が混じる。政治家は有権者の前で、実業家は市場の前で裁かれるが、信仰者は聖なる神の御前で裁かれる。教会とは自分が偽善者であることを神の光によって知らされる場所である。

イエスは完璧な人間が自分を証しすることを求めていない。もしそうなら誰も福音を語る資格はない。偽善を恐れて沈黙するという偽善に陥るくらいなら、神の前に「私は弱く不完全な偽善者です」と告白した上で、それでもなお主がしてくださったことを語り始める勇気ある偽善者としてスタートを切る方が、主はどれほど喜ばれることか。

私たちは自分の力で内側を清められない。ただできることは、もはや自分の力で清めることを諦め、強欲と放縦に満ちたドロドロの杯の内側、死者の骨と汚れに満ちた墓の内側を、そのまま隠さずイエス・キリストの御前に差し出すことである。主は私たちの叫びに必ず応え、聖霊を送り、日々内側を新しく造り変えてくださる。

イエスの「不幸だ!」という叫びは、直後に「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と泣き崩れた涙の叫びでもあった。この主が今、私たちの汚れた内側を十字架の愛で固く抱きしめようとしている。