2025年10月12日「命を与えるお方」

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命を与えるお方

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨブ記 1章20節~22節

音声ファイル

聖書の言葉

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。ヨブ記 1章20節~22節

メッセージ

明日の墓前礼拝を前に、キリスト者における死と生について考えたい。

先日、玉川聖学院の75周年記念講演会に参加した。講師のジョン・ピストル氏は元FBI職員で、元運輸局長官を務めた方である。「混迷の時代に平和を語る」というテーマで講演された後、質疑応答で興味深いやり取りがあった。ある質問者が「所有についてどう思うか」と尋ねたのである。戦争も盗みも、他人のものを所有したいという欲求から始まるのではないか、という問いだった。

ピストル氏の答えは明快だった。「この世界、土地、私の持っているもの、それらはすべて神から与えられるものであり、私たちは管理しているに過ぎない」。これは信仰者の立場からの正直な言葉だと感じた。

本日読んだヨブ記も、まさにこの「所有」ではなく「委ねられたもの」という信仰の視点を表している。ヨブは「無垢な正しい人」として紹介され、七人の息子と三人の娘、莫大な財産を持つ東の国一番の富豪だった。しかし彼は財産に執着せず、すべてを神から委ねられたものとして受け止めていた。定期的に息子たちのためにいけにえをささげる姿は、彼が家族の霊的な管理者であったことを示している。

ある日、神とサタンの対話があり、ヨブへの試みが始まる。一日のうちに四つの災いが四方からヨブを襲い、財産と全ての子どもたちが失われた。その時ヨブは衣を裂き髪をそり落として深い悲しみを表現したが、地にひれ伏して神を礼拝し、こう告白した。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。

これは諦めの言葉ではない。深い悲しみの中で告白された信仰の言葉である。私たちは裸でこの世に生まれ、何も持たずに去っていく。その間に与えられているすべてのもの――家族も健康も財産も、そして命そのものも――神から与えられた賜物である。神は時が来れば、それらをご自身のもとに取り戻される。これは私たちの命が神の御手の中にあることを意味する。

ヨブの信仰から三つのことを学べる。第一に、悲しみを正直に表すことと神を信頼することは矛盾しない。ヨブは深く悲しんだが、神への信頼を失わなかった。第二に、すべてを神から与えられたものとして受け止める姿勢である。私たちは所有者ではなく管理者である。第三に、死は終わりではなく神のもとへ帰ることだという希望である。命を与えてくださった方のもとに帰る場所がある。

明日、墓前礼拝に出席される方々は、先に召された方々の名を呼び、その生涯を思い起こすだろう。本日この場にいる私たちも、召天者を覚えつつ、私たち自身の命について思いを巡らせたい。

私たちの命は神から与えられたものであり、時が来れば神の御手に委ねるものである。その間、神から委ねられた命を精一杯生きる者でありたい。ヨブは最も深い悲しみの中で「主の御名はほめたたえられよ」と告白した。私たちも、人生のあらゆる局面において、命を与え、支え、やがて御もとに迎えてくださる神をほめたたえる者でありたい。