2025年10月05日「天の国を閉ざす罪」
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天の国を閉ざす罪
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 23章13節~22節
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聖書の言葉
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。マタイによる福音書 23章13節~22節
メッセージ
イエスは律法学者とファリサイ派の人々に向かって、厳しい言葉を語られた。「わざわいだ、偽善の律法学者、ファリサイ人」。これは預言者たちが神の裁きを宣言するときに使った言葉である。
彼らは言う。「神殿にかけて誓っても無効だが、神殿の黄金にかけて誓えば有効だ」。本末転倒もいいところだ。そこでイエスは「黄金と、黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが尊いか」と問いかける。黄金を聖なるものにしているのは神殿だ。では神殿を聖なるものにしているのは誰か。すべては神ご自身に帰着する。源泉は常に神なのだ。
パウロはこのことをよく理解していた。コリントの教会は問題だらけだったが、パウロは彼らを聖徒と呼んだ。私たちが清いとすれば、それは神が清いからだ。神が臨在してくださるこの私は清い。あなたが清いかどうかは関係ない。清いとすればただ、神が清いからだ。
もう一つの本末転倒もある。「あなたたちは十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」。ハーブを献げるという細かな規定は守るが、預言者たちがずっと語り続けてきた神の心を見失っている。預言者ホセアは言った。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではない」。マタイは繰り返してきた。憐れみは犠牲に勝ると。そしてこのことが十字架間近の場面で出てくる。キリストの十字架の本質、それは憐れみなのだ。ただの犠牲ではない。そこには神の憐れみが確かにあった。
イエスは言う。「ぶよを濾して除くが、らくだは飲み込んでいる」。小さな虫は気をつけて濾すのに、大きならくだは平気で飲み込む。この滑稽さの中に、痛烈な批判がある。最も恐ろしいのは、彼らが嘘をついているのではないということだ。彼らは本当に、心から、黄金の方が大切だと思っていた。これが偽善の本質だ。自分自身が真理を見失っていること、自己欺瞞なのだ。
なぜか。細かい規定の方が「わかりやすい」からだ。薄荷を十分の一献げたかどうかは測定できる。証明できる。だが正義とは何か。慈悲とは何か。それは簡単には測定できない。いつも「これで十分か」と問われ続ける。いつも神の前に立たされ、「わかりません」「まだ足りません」と認めざるを得ない。だから彼らは測定できるものに逃げ込んだ。そして、いつの間にか本当にそれが大切だと思い込むようになった。手段が目的になっていく。そして本人は、そのすり替わりに気づかない。
私たちはどうか。目に見えるもの。測定できるもの。わかりやすいもの。これらにこころを奪われることはないか。だが、正義はどこにあるか。慈悲はどこにあるか。目の前の貧しい人、傷ついている人、排除されている人に、私たちは同じ熱心さを注いでいるか。神の前に立つとき、私たちの憐れみや正義はどこまでも不十分である。ただ「わかりません」「憐れんでください」と言うしかない。それが謙遜であり、信仰だ。源泉は常に神である。その神の前に立ち、神の憐れみを求めるとき、私たちは本当に大切なものを見る目を開かれる。正義、慈悲、誠実。これらは神ご自身から流れ出る恵みなのだ。
そしてどこまでも正義や憐れみに不十分なこの私のために、イエス・キリストが十字架におかかりになったことを覚える時、私たちは神の憐れみや正義がこの私に確かに注がれていることに気づき、目に見える、測定可能な事柄から解放されるのである。キリストの十字架はこの解放をもたらすものなのだ。