2025年09月28日「しばらく休む」
問い合わせ
しばらく休む
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 6章30節~44節
音声ファイル
聖書の言葉
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。マルコによる福音書 6章30節~44節
メッセージ
弟子たちは主イエスから派遣され、悪霊を追い出し病人を癒やす宣教の旅から帰ってきた。彼らは大きな成功を収めたが、極度の緊張と疲労の中にあった。イエスは出入りする人々の多さで食事もできない弟子たちを見て、「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と声をかけられた。
聖書における「人里離れた所」は単なる寂しい場所ではない。旧約聖書では荒野と呼ばれるその場所はイスラエルの民がエジプトから解放され、神と出会い、天からのマナを与えられた特別な場所である。イエスは弟子たちを、世の喧騒から離れて神との交わりの中で魂をリフレッシュさせる本当の休みへと招かれた。
しかし群衆が先回りして待っていた。休みが消えてしまった状況で、イエスは彼らを「飼い主のいない羊」として深く憐れまれた。羊飼いのいない羊は、行くべき場所を知らず、飢えと危険にさらされる。イエスは人生の目的を見失い心の飢えに苦しむ人々の魂の叫びを聞き、まことの羊飼いとして教え始められた。弟子たちはその働きを見ながら、体を休めるのとは違う深い霊的な休みを与えられていった。
日が傾き、弟子たちは群衆を解散させて食事を買いに行かせるよう提案した。それは休む間もなく教え続けるイエスを気遣う人間的な愛の表れだった。しかしイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた。弟子たちは二百デナリオン、つまり一年分の賃金に相当する額を思い、絶対に不可能だと感じた。
私たちも目の前の大きな問題に対して無力感に苛まれることがある。しかしイエスは弟子たちの「できない」という現実を、新しい世界への入り口とされた。「パンは幾つあるのか」との問いによって、持っていないものではなく持っているものに目を向けさせた。五つのパンと二匹の魚という圧倒的な乏しさから、神の奇跡は始まる。私たちの正直な告白と乏しい献身から、神の豊かな御業は始まるのである。
イエスは群衆を緑の草の上に組にして座らせ、パンと魚を手に取られた。当時、一家の主人が食卓で感謝の祈りをささげ、パンを裂いて分け与えるのが習慣だった。まことの神であるイエスが、自ら食卓の主人として仕える者となり、私たちの必要を満たしてくださる。パンは配っても尽きず、五千人以上が満腹し、十二籠もの残りが出た。圧倒的な乏しさが圧倒的な豊かさへと変えられた。
本当の休みとは、仕事や問題から逃げることではない。それは自分の限界を認め、持っているわずかなものをありのままイエスの御手に委ね、このお方がまことの羊飼いであり食卓の主人であると信頼することである。この信仰にこそ、魂の本当の安息がある。私たちの乏しさや限界をイエスのもとへ持っていく時、このお方は喜んで受け取り、想像を超えて満たしてくださるのである。