2025年09月14日「肩に重荷か心に愛か」
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肩に重荷か心に愛か
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 23章1節~12節
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聖書の言葉
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。マタイによる福音書 23章1節~12節
メッセージ
マタイによる福音書はイエス・キリストから敵対者達への通告である。この箇所は、イエスが当時の宗教指導者たちへ厳しい裁きを告げる序論であり、まず弟子たち、すなわち現代の私たちに向けて語られている。その後、イエスは敵対者たちにお語りになられる。この敵対者達への言葉を「7つの災い」と呼ぶ。
説教の中心は、ファリサイ派の信仰がなぜ道を誤ったのかという分析にある。その根源は「そのすることは、すべて人に見せるため」(5節)という一点に集約される。彼らの信仰は、神との親密な交わりから生まれるものではなく、人々という観客を意識した「劇場型信仰」であった。聖句の小箱や衣の房といった敬虔さのしるしは、神への愛の表現ではなく、自らの熱心さを誇示するための舞台衣装と化していた。
このような「見せるための信仰」は、必ず「重荷」という毒を生み出す。彼らは愛を失った律法主義によって「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」(4節)が、その重荷に苦しむ隣人に対しては「指一本貸そうともしない」という冷酷な無関心を示した。愛なき正義は、人を裁き、絶望させる暴力と化す。
この姿は、私たちのイエス・キリストのあり方と鮮やかな対照をなす。イエスは重荷を課すのではなく、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と両腕を広げて招かれるお方である。さらに、私たちが負うべき罪と死という最も重い荷を、黙ってご自身の肩に担い、十字架の上まで運んでくださった。ファリサイ派が指一本動かさなかった重荷を、主はご自身の命をもって取り除いてくださったのである。
では、重荷を下ろされた者の共同体である教会は、どうあるべきか。イエスは「あなたがたは『先生(ラビ)』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」と宣言し、人間的な権威のピラミッドを覆す。教会は、牧師や信徒といった役職による上下関係ではなく、唯一の師であるキリストのもとに集う、対等な「兄弟」として互いに仕え合う共同体であるべきだと説く。
私たち自身の内にも潜む、名誉を求め、人を裁くファリサイズム(律法主義)から逃れる道は一つしかないと語る。それは、私たちのすべての重荷を背負い、最も低い場所である十字架へと歩まれたイエス・キリストを見つめることである。神の御子でありながら僕の姿をとられたキリストの圧倒的な愛と謙遜の前に立つとき、私たちの自己義認のプライドは打ち砕かれる。そして、空になった心に注がれるキリストの愛によって内側から造り変えられ、人を縛る重荷から解放されて、神と隣人に愛をもって仕える人生へと新しく歩み出すことができるのである。