2025年09月07日「あなたにとってキリストとは」

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あなたにとってキリストとは

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章41節~46節

音声ファイル

聖書の言葉

ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。マタイによる福音書 22章41節~46節

メッセージ

マタイによる福音書22章41節から46節は、イエス・キリストの地上生涯における一つの大きな転換点である。祭司長やファリサイ派といった指導者たちとの激しい論争の末、彼らが沈黙したとき、これまで問いに答える側であった主イエスが、ご自身から一つの問いを発せられた。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。

主イエスの問いに、ファリサイ派は「ダビデの子です」と即答した。これは旧約聖書の預言に基づく模範解答であり、聖書的に正しい。マタイによる福音書も、その冒頭の系図から、イエスがダビデの家系から生まれた正当な王位継承者であることを丁寧に証明している。この事実は、私たちの信仰の揺るぎない土台である。イエスが「ダビデの子」であることは、彼が神話の登場人物ではなく、私たちと同じ血の通った人間としてこの地上に来られたことの証しに他ならない。この完全な人間性なくして、私たちの弱さや痛みに寄り添い、私たちの罪をその身に負って十字架にかかることはできなかった。ファリサイ派の答えは、メシア理解の不可欠な第一歩であった。しかし、主イエスは私たちがそこに留まることを許さない。なぜなら、それはイエスの真実の、ほんの一側面に過ぎなかったからである。

ファリサイ派の正しい答えに対し、主イエスは詩編110編を引用し、彼らの理解を超えた問いを投げかける。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」。偉大な王であるダビデ自身が、未来に来るはずの自分の子孫を「わたしの主」と呼んでいる。先祖が子孫を「主君」と呼ぶことはあり得ず、この問いは彼らのメシア観を根底から覆すものであった。メシアは単にダビデの血を引く人間であるだけでなく、ダビデ自身が「主」と仰ぎ見るような、人間を超えた神的な権威を持つお方でなければならない。この問いの前に、律法の専門家たちは完全に沈黙した。彼らの神学では、「人間であり、同時に神であるお方」という存在を到底理解できなかったのである。彼らは、目の前にいるこの方が、ダビデの子孫でありながら、ダビデ自身をも支配する「主」であることを認めることができなかったのだ。

この答えられない問いは、私たちをマタイ福音書が指し示す究極の答えへと導く。「ダビデの子」である完全な人間性と、「ダビデの主」である完全な神性。この二つの真実を矛盾なく一つに結び合わせる答えは何か。その答えは、マタイ26章の大祭司カイアファの法廷で明らかにされる。大祭司が「お前は神の子、メシアなのか」と問うたとき、主イエスは「それは、あなたが言ったことです」と肯定された。究極の答えは、主イエスが「神の子」である、という事実である。この称号だけが、あの深遠な真理を完全に説明できる。神の独り子として、イエスは父なる神と等しい神性を持つゆえに「ダビデの主」である。そして、その神の御子が私たちを救うために人となり、ダビデの家系に生まれたゆえに「ダビデの子」である。人間であり神であるこのお方だからこそ、十字架上で神の義と人間の罪のすべてを一身に背負い、私たちのための完全な救いを成し遂げることができた。これこそがキリスト教信仰の中心である。