2025年08月24日「まことの命に生きる」

問い合わせ

日本キリスト改革派 綱島教会のホームページへ戻る

まことの命に生きる

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章23節~33節

音声ファイル

聖書の言葉

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。マタイによる福音書 22章23節~33節

メッセージ

永遠の命を拒否する人がいる。大学時代の哲学の先生が「復活や永遠の命なんか、まっぴらだ」と授業中に言われた。確かに今の生活が終わりなく続くとしたら耐え難い退屈となる。著名な哲学者が有限性に人生の意味を見たのも理解できる。しかし聖書が語る永遠の命は、この現実の延長ではない。今日の箇所はそのことを示している。

 本日の聖書箇所に登場するサドカイ派は神殿を支配したエリート層で、復活を信じなかった。彼らにとって信仰とは地上での祝福を受けることであり、死後の命は否定された。彼らはレビラート婚(兄弟の兄が亡くなったら兄嫁と弟が乾坤する古代の制度)の極端な例を持ち出し、復活の不合理を突こうとした。七人の兄弟と一人の妻の話で、復活したら誰の妻になるのかと問う。しかしこれは論争のための問いであった。興味深いのは「跡継ぎをもうける」という言葉に「アナスタセイ」という動詞が使われており、これは復活と同じ語根を持つ。彼らは復活を否定しつつ、実際には子孫を通じて名を残すことを人間の復活と見なしていた。

 ただ、この問いは私たちにとっても身近である。配偶者を亡くして再婚した人が天でどうなるのか。今の関係がそのまま続くなら問題は避けられない。しかしイエスは答えられた。「復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」。復活の命は地上の延長ではなく質的に異なる命である。天使には死がなく、ゆえに子孫を残す必要がない。同様に復活の命では結婚制度は不要となる。だからといって愛が消えるのではない。むしろ嫉妬や独占を超え、より広く深い愛の交わりが可能となる。私たちには完全に理解できないが、それは確かにより豊かな新しい存在の形である。

 さらにイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と語られる。出エジプト記の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉は過去形ではなく現在形で記されている。彼らが死んでも神との関係は続いている。神との契約は死によって断ち切られない。これが復活信仰の核心である。

 復活信仰は死後への逃避ではない。むしろ今を真に生きる力を与える。未来がないからではなく、永遠があるからこそ今日を精一杯生きられる。死を恐れる人は財産や名声、子孫に執着するが、復活を信じる者はそれらから自由にされる。死を超えて続くものがあると知っているからである。神は今日の神であり、過去や未来に縛られることを望まれない。復活を信じる者は小さな失敗や成功に左右されず、本当に大切なことに集中できる。

 聖書のいう永遠の命は単なる時間の長さではない。神との交わりの中で生きることそのものである。ヨハネによる福音書に「永遠の命とは、唯一のまことの神とイエス・キリストを知ること」(11章25節)とあるように、永遠の命はすでに今始まっている。死後に始まるのではなく、神と共に歩む今日から始まるのだ。