2025年08月17日「神の国の民として」
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神の国の民として
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 22章15節~22節
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聖書の言葉
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。マタイによる福音書 22章15節~22節
メッセージ
本日の聖書箇所は、エルサレム神殿における緊迫した場面である。マタイ22章には三つの論争が記録されている。ファリサイ派とヘロデ派による納税問題、サドカイ派による復活問題、律法学者による最大の戒めの問題である。これらは単なる神学的議論ではなく、巧妙に仕組まれた罠や試験であった。しかしイエスは見事に応答され、完全な勝利を収められた。
今朝は第一の論争、納税問題に注目する。ファリサイ派は宗教的純粋主義者で「神の民は異教徒の皇帝に税を払うべきではない」と考え、ヘロデ派は政治的現実主義者で「ローマの支配は受け入れるべき」と考えていた。両者は敵対しながらも、イエス・キリストに対しては共通の敵として連合した。彼らは「二項対立の罠」を仕掛けたのである。
この質問の背後には歴史的緊張がある。紀元6年、ユダヤがローマ直轄領となり人頭税が導入された時、ガリラヤ人ユダ(ガリラヤのユダ、ガマラのユダとも言われる)が激しい反乱を起こした。彼は「神以外に主人を持つことは神への背信だ」と主張し、「熱心党」運動の始まりとなった。このスローガンは「神のみが王」であった。
そして今、別のガリラヤ人イエスがエルサレムに来ている。指導者たちは「このガリラヤ人は第二のユダになるのか、それともローマに屈服するのか」と考えた。興味深いことに、主イエスはガリラヤ人として税金の対象外であったため、「客観的な」意見を求められたのである。
「税金に納めるお金を見せなさい」。イエスのこの要求は重要な意味を持つ。デナリオン銀貨には皇帝ティベリウスの肖像と「神なる皇帝」「大祭司」という称号が刻まれており、十戒の偶像禁止と唯一神信仰に違反するものであった。敬虔なユダヤ人は忌み嫌うこの貨幣を、彼らは聖なる神殿で持っていた。ここに偽善が暴露される。偶像的貨幣を便利に使いながら、その権力への納税を宗教的問題として論じる矛盾である。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。イエスは「返す」という動詞を用い、「本来の所有者に返還する」意味を込められた。これは「神か皇帝か」という二者択一を超越する第三の道の提示である。二つの領域は必ずしも対立しない。後にパウロやペトロが展開する教会と国家の関係の基礎がここに据えられた。
両者を相克する道。この原則は決して楽な道ではない。創造的な緊張を生きることを求める。地上の市民として誠実に責任を果たしながら、神の国の市民として高い価値観に従う。この緊張こそが証しとなる。現代の私たちも様々な緊張の中に置かれている。職場では会社の利益と神の国の価値観の間で、社会参与では政治的意見の相違の中で、家庭では信仰を持たない家族との間で緊張を経験する。しかし緊張から逃げるのではなく、愛と忍耐をもって接することで生きた証しとなることができる。
デナリオン銀貨には皇帝の像が刻まれていたが、私たち人間には神の像が刻まれている。皇帝のものは皇帝に返すが、私たちの全存在は神に返すべきものである。地上の責任を誠実に果たしながら、究極的には神に属する者として生きる。この緊張に満ちた、しかし恵みに支えられた歩みこそ、神の国の民としての生き方なのである。