2025年08月10日「招きに応える」
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招きに応える
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- 小宮山裕一 牧師
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マタイによる福音書 22章1節~14節
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聖書の言葉
イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」マタイによる福音書 22章1節~14節
メッセージ
マタイによる福音書22章1-14節の婚宴のたとえは一見矛盾するような展開を見せるが、そこには神の愛と人間の責任に関する重要な真理が込められている。物語は、王が息子のために婚宴を催し、人々を招く話から始まる。王は完璧に準備を整え、「牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています」と三度も準備完了を強調している。最高級の食材を惜しみなく提供し、客人たちのために完璧に整えて待っている姿が描かれる。これは神が人間のために救いの計画をすべて整えてくださったことを表している。主イエスの十字架と復活によって、私たちが神の国に入る道は完全に開かれており、私たちが何かを付け加える必要はない。
しかし最初に招かれた人々の反応は期待とは正反対であった。彼らは一度、招待を受け入れながら、いざその時になって約束を破った。当時のユダヤの習慣では、婚宴への招待は二段階で行われ、事前の招待状を受諾した人に当日使いが送られるのが通例であった。つまり彼らは明確に約束を破ったのである。彼らは畑仕事や商売といった日常の営みを王の招きより優先した。これらは決して悪いことではなく、むしろ生活に必要なまっとうな営みであったが、彼らは王の招きの価値を正しく評価できず、「無視した」「軽んじた」のである。現代の私たちの信仰生活にも同様のことが起こっている。礼拝への招きを受けていながら、「今週は仕事が忙しくて」「家族の用事があって」と、神の招きを後回りにしてしまう。それ自体は悪いことではない日常の営みを、神との交わりより優先してしまうのである。
王の怒りと裁きの後、新たな招きが発せられる。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」という命令により、善人も悪人も皆が集められる。この徹底した開放性は神の恵みの普遍性を示している。社会的地位も道徳的な優劣も問われない。しかし物語はここで終わらない。王は礼服を着ていない者を見つけて外に追い出す。この展開に多くの人が困惑するが、ここでの礼服とは特別な衣装ではない。当時の習慣では、婚宴に出席する際には清潔な白い衣服を着るのが礼儀であり、それは誰でも用意できるものであった。つまりこの人物は、王の婚宴に招かれながら、着替える手間さえ惜しんだのである。普段着のまま、汚れた服のまま王の宴席に入ってきたこれは、招きへの敬意の完全な欠如を示している。さらに重要なのは、王が「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と愛情を込めて問いかけたとき、この人物が完全に沈黙を保ったことである。弁明も謝罪も何の応答もなかった。この沈黙は神との対話を拒否する姿勢を表している。神は常に人間との対話を求めているが、応答がなければ関係は成立しない。
私たちにとって礼服を着るとは、神の招きに対する最小限の敬意を示すことである。特別な資格や能力は求められていない。ただ悔い改めの心をもって神の前に出て、自分の罪を認め、神の赦しを求めることが現代の私たちにとっての礼服である。そのことはいいかえれば、「キリストを着る」といってもよい。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章27節で「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と語る。私たちの礼服とは、主イエス・キリストご自身。キリストを信じ、キリストに結ばれることによって、私たちは神の前にふさわしい者とされるのだ。そのように神の民とされた私たちは、神が全てを備えて下さる喜びの祝宴に招かれている。