2025年08月03日「キリストを迎え入れる」

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キリストを迎え入れる

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章33節~46節

音声ファイル

聖書の言葉

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。マタイによる福音書 21章33節~46節

メッセージ

マタイによる福音書21章33〜46節の「ぶどう園と農夫のたとえ」は、常識ではありえない展開に満ちている。主人は垣や搾り場、やぐらまで備えたぶどう園を農夫に貸し、収穫の分け前を取りに僕たちを送るが、農夫たちは彼らを殴り、殺す。それでも主人はさらに僕たちを送り、最後には愛する一人息子まで送る。農夫たちは息子を跡取りと見て殺し、財産を奪おうとする。この主人は神を、農夫は神の恵みを当たり前とし、感謝を失い、反逆する人間を表す。

 神は人間に命や世界、才能など豊かな恵みを与えてきた。しかし人間はそれを自分の努力の成果と錯覚し、やがて自分が人生の主人だと思い込む。預言者たちは神の言葉を携えて遣わされた僕たちであるが、人間は彼らを拒み、暴力をふるい、ついには御子キリストをも退ける。

 それでも神は御子を送り、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と期待された。この「敬う」には「我に返り恥じ入る」という意味がある。神が求めるのは力による服従ではなく、愛に触れて心から悔い改める「聖なる恥」だ。これは世間体による恥ではなく、神の聖さと愛の前で自らの罪を悟る垂直的な恥であり、赦しへの入り口である。しかし農夫たちはそれを感じず、御子を殺す。

 だが神は、人間に捨てられた御子を復活させ、「隅の親石」とされた。これは神の国の基礎であり、この基礎の上に建てられるのは「新しい民族」である。血筋や民族ではなく、キリストを人生の土台として信じ、受け入れる者がその民となる。ユダヤ人も異邦人も関係なく、信仰によって一つとされた教会こそ、その新しい民族である。

 私たちも本性は悪い農夫である。神の恵みを忘れ、自分の人生を自分のものと思い込み、神を締め出そうとする。しかしキリストは十字架で私たちの罪を負い、ぶどう園の外で死んでくださった。その愛の前で「主よ、私は罪人です」と告白することこそ、キリストを迎え入れることである。

 聖餐は、この福音を具体的に受け取る時である。パンは砕かれた主の体、杯は罪を赦す新しい契約の血を表す。信仰をもってこれにあずかり、「主よ、あなたを私の主人として迎えます」と心から告白しよう。そこでこそ、私たちは新しい民族として生かされ、感謝と愛の実を結ぶ者へと造り変えられていくのである。