2025年07月27日「救いに至る道」
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救いに至る道
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 10章5節~13節
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聖書の言葉
モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマの信徒への手紙 10章5節~13節
メッセージ
人間は、自らの「行い」によって価値を証明しようともがき、絶えざる焦燥感と疲弊の中に生きている。仕事の成果や他者からの評価といった不安定な土台の上に人生を築こうとすることで、決して満たされることのない渇きを覚えるのである。ローマの信徒への手紙は、こうした人間が陥りがちな「律法による義」の道について語る。「掟を守る人は掟によって生きる」というこの道は、一見公平に聞こえる。しかし、それは神が示したルールを一つ残らず完璧に守り通すことを要求する道であり、いわば全ての項目で満点を取らねば不合格となる壮大な成績表のようなもの。聖書が示すように、人間は不完全な存在であり、この道を自力で歩み通すことは不可能。この「行い」の道を救いの道としようとすればするほど、人は自らの不完全さに直面し、神の聖さの前に絶望するしかない。
しかし、聖書は行き止まりを告げるのではない。人間が作る道とは全く次元の異なる、もう一つの道を宣言する。それは、人が自らの足で登る道ではなく、神ご自身が、天から地に至るまで、私たちのために拓いてくださった唯一の道である。その核心は、「求めるのではなく、既に備えられている」という真理に集約される。「私たちが行う」のではなく、「神がすべてをやり終えてくださった」ことこそが、福音の真髄なのである。
では、この神が備えた救いをどうすれば得られるのか。パウロは「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と続ける。救いは、厳しい修行や特別な体験の先にあるのではなく、今この場所で、呼吸よりも身近に差し出されている。ここでいう「御言葉」とは、生きた力あるメッセージであり、その究極の姿はイエス・キリストご自身である。復活されたキリストが、すぐそばで語りかけておられるのだ。
この人格的な救い主に対し、求められる応答は驚くほどシンプルである。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。心で信じるとは、神が成し遂げたこの救いの御業を、自分のための真実として全存在で受け入れる人格的な信頼である。口で言い表すとは、その内なる信頼が外にあふれ出る姿であり、「私の人生の真の主は、この世の権力者ではなく、十字架にかかり復活されたイエス・キリストただお一人です」という、人生の主導権を明け渡す決断的な告白なのである。この救いの道は、資格を問わず、すべての人に大きく開かれている。「主を信じる者は、だれも失望することがない」「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。人種、性別、経歴、自己評価といった人間の側の条件は、神の救いの前では一切関係ない。必要なのはただ一つ、「主の名を呼び求めること」である。それは溺れる者が助けを求めるように、差し伸べられている恵みの御手をただ掴むことなのだ。
したがって、私たちはもはや「求める」世界で自分をすり減らす必要はない。イエス・キリストが救いに必要なすべてを十字架と復活において完全に「備えて」くださったからである。人の価値は行いや成果によってではなく、天地を創造した神が、御子を与えるほどにその人を「高価で尊い」と見なしている事実によって、永遠に確立されている。この真理こそが、人をすべての重荷から解放し、決して失望に終わることのない永遠の命と平和を与えるのである。