2025年07月20日「思いと言葉と行動」

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思いと言葉と行動

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章28節~32節

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聖書の言葉

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」マタイによる福音書 21章28節~32節

メッセージ

人の心には、思いと言葉、そして行動の間に溝が生まれることが常である。高校時代、恩師から「ゴミを拾うと言って通り過ぎる人、舌打ちしながらも拾う人、どちらが立派か」と問われたことが心に残っている。本日の聖書箇所、マタイによる福音書21章の「二人の息子のたとえ話」は、まさにこの人間の真実と、それに対する神の驚くべき眼差しを鮮やかに描き出している。本日は特に「考え直す」という行為に宿る神の恵みのダイナミズムについて語りたい。

イエスが語られた物語は、前の段落から続く宗教指導者たちとの厳しい対決のさなかに投げかけられた鋭い刃であった。イエスは例えを話された。あるところに父親と息子二人がいた。父が「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と愛情をもって招いたのに対し、二人の息子は対照的な応答をする。兄は「いやです」と率直に反抗するが、後に「考え直して出かけた」。彼の心の中で父の呼びかけが働き、行動へと導いたのである。一方、弟は「承知しました」と模範的に返事しながら、結局行かなかった。その美しい言葉は行動を伴わず、空虚に終わった。これは、神の御心に背を向けたり、逆に信仰的な言葉を口にしながら実行が伴わなかったりする、私たち自身の姿を映し出す鏡である。

イエスは「どちらが父の望みどおりにしたか」と問われる。神の眼差しは、私たちの完璧さではなく、心の「方向性」に注がれている。初めは背を向けた兄も、「考え直し」て父の望む方向へと転換した。この「考え直し」は、本人の道徳的な力だけによるのではない。心に留まり、働きかけ続ける神の言葉、その諦めない恵みに対する私たちの応答なのである。それは自分の弱さや罪を認め、神の呼びかけにもう一度立ち返る「方向転換」そのものであり、神が最も喜ばれるものだ。

このたとえ話の結論は衝撃的である。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。当時の罪人の代名詞であった彼らは、自らの罪を自覚していたからこそ、悔い改めの招きに「考え直し」、行動で応えた「兄」であった。対して、自らを正しいと信じる祭司長や長老たちは、悔い改めの必要性を感じず、「考え直す」ことをしなかった。言葉だけで行動の伴わない「弟」の姿である。神の国とは、生まれや知識で入れるものではなく、神の招きに心を砕き、「考え直す」者がまさに今、招き入れられているダイナミックな場なのだ。

この言葉は、2000年の時を超え、私たち一人ひとりに問う。「あなたはどちらの息子か」と。私たちは信仰生活の中で、行動の伴わない弟になっていないだろうか。あるいは、自分の弱さに絶望し、心を閉ざす兄になっていないだろうか。どちらの私たちであれ、神は「考え直す」という恵みを常に差し出してくださる。私たちの完璧さではなく、不完全なまま神の望みへと立ち返ろうとする、その正直な方向転換こそが求められている。今日、神の呼びかけに応え、「考え直し」て、それぞれのぶどう園へと遣わされていこうではないか。