2025年07月06日「実を結ぶ信仰」

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聖書の言葉

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」マタイによる福音書 21章18節~22節

メッセージ

今朝開いた聖書の箇所は一つの大きな「期待外れ」の場面から始まる。イエスが朝早くエルサレムに向かって歩いておられた時、空腹を覚えて道端のいちじくの木に近づかれた。遠くからでも分かるほど青々とした葉を豊かに茂らせているその木には、きっと甘い実が隠れているに違いないと期待された。しかし、近づいて枝をかき分けてみても、そこにあったのは葉だけだった。ギリシャ語の原文は、この「葉だけ」という状態を「ただ、葉、のみ」と非常に強く強調している。実のかけらも、実がなろうとしている兆候さえもそこにはなかった。主イエスの期待は完全に裏切られた。この瞬間、主イエスはその木に向かって厳しく決定的な言葉を宣言される。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。すると、いのちの源である主の言葉が、この時は全く逆の形で働いた。あの青々としていたいちじくの木は、弟子たちの目の前で「たちまち」そのいのちの輝きを失い、根元から枯れてしまったのである。

旧約聖書において、いちじくの木はしばしば神の民イスラエルの象徴だった。神様は、ご自身の民が神様との豊かな関係の中で素晴らしい実を結ぶことをずっと期待しておられた。しかし、当時のイスラエル、特にエルサレムの宗教指導者たちの姿は、まさにこのいちじくの木のようだった。この物語は、2000年前のユダヤ人指導者たちだけに向けられたものではない。今、この朝、私たち一人ひとりの心に突き刺さってくる鏡である。私たちはどうだろうか。毎週教会に集い、礼拝をささげ、奉仕にも励んでいるかもしれない。聖書の知識も増え、祈りの言葉も流暢になっているかもしれない。私たちの信仰の枝には、立派な「葉」が茂っているように見えるかもしれない。

しかし、神様は、その葉の陰に隠された「実」を今も探し求めておられる。私たちの生活の中で、家庭や職場で、人間関係の中で、イエスとの生きた交わりから生まれる愛と喜びと平和の「実」は確かに結ばれているだろうか。それとも、活動の忙しさの中で、いつの間にか神様との生きた関係を見失い、私たちの信仰は人を潤すことのない、自分を飾るだけの「葉」になってはいないだろうか。

この衝撃的な光景を目の当たりにした弟子たちは、ただただ驚いた。そして、彼らの口から出たのは「なぜ、この木を枯らしたのですか」という理由を問う言葉ではなく、「どうして、こんなことが一瞬でできたのですか」という力の源泉への問いだった。イエスは、裁きの理由を解説するのではなく、彼らの未来に向かって驚くべき可能性の扉を開かれた。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく…」これは驚くべき転換である。主イエスは「この力は私だけの特別な力だ」とは言われなかった。「この力の世界に、君たちも入ってくることができるのだ」と、彼らを招いておられるのである。

主イエスは、葉だけで実のない乾いた信仰生活から私たちを解放したいと願っておられる。そして、神のいのちと力に満ち溢れ、豊かな実を結ぶダイナミックな信仰の世界へと私たちを招き入れておられる。