2025年06月29日「正義と憐れみの主」
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正義と憐れみの主
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 21章12節~17節
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聖書の言葉
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。マタイによる福音書 21章12節~17節
メッセージ
過越祭を間近に控えたエルサレムは、世界中から集まった巡礼者たちの熱気で満ち溢れていた。そんな中、ロバの子に乗って都に入り、群衆から「ホサナ」と熱狂的な歓迎を受けたイエスが向かったのは、王宮でもローマ総督の官邸でもなく、エルサレム神殿だった。そして人々の期待を裏切るかのように、神殿の境内で売り買いをしていた商人たちを嵐のように追い出し、両替人の台をひっくり返し、鳩売りの腰掛けを蹴り倒すという激しい行動に出た。
この宮清めの出来事は、単なる感情の爆発や短絡的な改革運動ではない。イエスの怒りは商売そのものではなく、神の家が「祈りの家」としての機能を完全に失ってしまった状況に向けられていた。本来「異邦人の庭」と呼ばれるその場所は、世界中のあらゆる民族が神に祈りをささげるために開かれた唯一の場所だったが、動物の鳴き声と騒音、金銭のやり取りで満ち溢れ、祈りのための静寂など皆無だった。最も貧しい人々が不当な値段で鳩を買わされ、異邦人たちは祈る場所さえ奪われていた。この偽善的なシステムで甘い汁を吸っていたのが祭司長たちを中心とする宗教支配層であり、イエスの行動は神の名を語って民を支配し私腹を肥やす邪悪な構造への正面からの挑戦状だった。
嵐のような混乱が過ぎ去った後、その場所にまるで待っていたかのように現れたのは、目の見えない人、足の不自由な人々だった。当時の律法的解釈では、体に障がいを持つ者は「汚れた者」と見なされ、神殿の聖なる場所への立ち入りが厳しく制限されていた。彼らは社会の隅に追いやられ、「私のような者が神様の前になど出られない」「この汚れた体では聖なる場所に近づく資格がない」という思いを抱いていたに違いない。しかしイエスは、彼らが「そばに寄って来た」のを静かに受け入れ、一人ひとりに触れて癒された。ここで宮清めの真の目的が明らかになる。イエスがあれほど激しく騒がしい市場を破壊したのは、この声なき人々のか細い祈りの声を聞くため、これまで招かれることのなかった彼らのために聖なる「祈りの場所」を創造するためだった。
この光景を見た二つのグループの反応は対照的だった。祭司長や律法学者たちは、癒しの奇跡を見ても喜ばず、子供たちがイエスに向かって「ホサナ」と叫ぶのを聞いて激しい怒りに満たされた。一方、子供たちは目の前の素晴らしい出来事に心を震わせ、理屈抜きの賛美の声をあふれさせた。子供たちの賛美を止めさせようとする大人たちに向かって、イエスは詩編8編を引用して答えた。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」。この詩編は天地創造の主なる神への荘厳な賛美の歌であり、イエスはその賛美を今ご自分に向けられている賛美として当然のこととして肯定された。これは「この子供たちの賛美は、まことに神に向けられるべき真実の賛美であり、その賛美を今受けているのはこの私なのだ」という、神ご自身の自己宣言に他ならない。
この出来事が受難週の冒頭に置かれているのは、これから十字架という最も無力で惨めで屈辱的な死を遂げようとしているイエスが一体何者であるのかを、私たちの心に永遠に消えないよう深く刻み込むためである。正義の主として偽りを断固退け、憐れみの王として招かれざる者を招き入れ、まことの神として天からの賛美を受けるにふさわしいこの方こそ、十字架にかかられた私たちの主なる神なのである。