2025年06月15日「主がお入り用なのです」
問い合わせ
主がお入り用なのです
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 21章1節~11節
音声ファイル
聖書の言葉
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。マタイによる福音書 21章1節~11節
メッセージ
マタイによる福音書21章1-11節はイエスの地上での生涯の最後の一週間の始まり。これまでのメシアとしての身分を隠されていた姿とは異なり、象徴的行為預言によってご自分がメシアであることを明確に示された場面である。この時、イエスが弟子たちに与えられた指示は極めて具体的で詳細なものだった。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる」という精密な地図のような指示。ここから重要な真理を学ぶことができる。神の計画は私たちの怠惰や無責任を通してではなく、具体的で責任ある準備を通して実現されるのである。真の神であり全知の神でありながら、主イエスは人間として可能な限りの準備と配慮を行われた。これは私たちの生活において、神の導きを求めて祈ると同時に、具体的な計画を立て、必要な準備を行うことが神の御心であることを示している。神への信頼と人間としての責任を果たすことは矛盾せず、この二つが統合された歩みを神は祝福してくださる。このところの「主がお入り用なのです」という言葉については、神としての権威を示すものとする解釈と、予め約束された合い言葉とする解釈がある。いずれにせよ、主イエスが綿密な準備を行っていたことは確かである。
イエスがろばに乗られたのは、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就のためだった。この「柔和な」という言葉は、ヘブライ語では実際には「みずぼらしい、貧しい」という意味である。見るべき姿もなく、人々が目を見張るような派手さもない。悲惨なものを救うために同じ悲惨で貧しい姿をして来られた王。
こうして、イエスはエルサレムにお入りになる。この場面には三つの異なる理解のレベルが見られる。第一に、エルサレム住民の「完全な無理解と恐れ」。彼らはイエスを「いったい、これはどういう人だ」と問うだけで答えを見出せなかった。第二に、エルサレムにお入りになるイエスを歓迎したガリラヤ群衆の「部分的理解に基づく歓迎」。彼らはイエスを正しく「ダビデの子」として認識し、適切な聖書的言葉で歓迎したが、政治的解放や物質的繁栄への期待も混在していた可能性がある。第三に、イエスご自身が意図された「真の王権の本質」。それは柔和さと仕えることによる支配、愛による征服だった。
多くの場合、私たちは第二のレベル、部分的理解に基づく熱狂や献身にいるのではないだろうか。私たちも自分の期待や必要に基づいてイエスに近づくことがある。しかし重要なのは、神が私たちの不完全な理解を拒絶されないということである。これらの理解のレベルは固定されておらず、時として混ざり合い、同じ人の中でも時と場合によって異なる理解が現れることがある。そのようなゆらぎをもっている私たちを従えて、主イエスは十字架と復活の道に向かわれるのである。
「いったい、これはどういう人だ」という問いは、私たち一人一人が答えなければならない最も重要な質問である。この問いへの答えが、私たちの人生の方向性を決定する。主イエスは今日も権力ではなく愛によって、威圧ではなく仕えることによって、私たちの心を勝ち取ろうとしておられる。どのような困難があっても神の計画は必ず実現され、私たちがその計画に参与するとき、私たちの人生は永遠の価値を持つのである。