2025年05月25日「新しい歩みへの招き」
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新しい歩みへの招き
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙二 5章11節~21節
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聖書の言葉
主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。コリントの信徒への手紙二 5章11節~21節
メッセージ
新しい年度が始まって2ヶ月近くが経とうとしている。私たちは節目で「何か新しいことを始めたい」「変わりたい」と願うが、心から満足できる本当の変化はなかなか難しい。過去の失敗や今の自分への不満、将来への不安に心が縛られてしまうからである。
現代社会では、人からの評価を気にし、SNSでの「いいね」を競い、肩書きや外見で人の価値を測ることが当たり前になっている。聖書はこのような状態を「肉に従って知る」と表現し、これを「古いもの」と呼ぶ。これは私たちの心を重くし、真の自由から遠ざけてしまう現代社会の病理である。私たちが本当に求めているのは、状況に左右されない根本的な内面からの真の解放と新しい始まりである。心の奥底にある「後ろめたさ」や「重荷」から本当に自由になり、新しい自分として歩み出す道はあるのだろうか。
聖書は驚くべき希望を語る。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5章17節)。この「新しい創造」の原動力は「キリストの愛」である。イエス・キリストは私たち一人ひとりの弱さ、痛み、そして後ろめたさの根源となる過ちまでも全てご存知の上で、限りなく愛し、ご自身の命を与えてくださった。それは私たちがもはや自分のためだけに、あるいは後ろめたさを抱えたまま生きるのではなく、キリストと共に新しい目的と希望をもって生きるためである。
聖書が示す「新しい歩み」は、どんな状況にあっても揺らぐことのない真の「心の居場所」を与えるものだ。それが「神様との和解」である。私たちは知らず知らずのうちに、私たちを造られた愛なる神様から心が離れてしまっている。自分の力だけで生きようとしたり、神様の存在を無視したりする。これが聖書の言う「罪」であり、私たちの心に虚しさや不安、後ろめたさを生み出す根本的な原因である。しかし神様は私たちを見捨てることなく、イエス・キリストを通して私たちのすべての罪を赦し、ご自身との平和な、愛に満ちた関係へと招いてくださる。「人々の罪の責任を問うことなく」とある通り、もはや後ろめたさを感じる必要のない、ありのままの私たちが受け入れられる場所がある。
どうすればこの後ろめたさからの解放と、神様との和解という新しい歩みを始めることができるのか。答えは感動的に記されている。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(5章21節)。
全く罪のないイエス・キリストが、私たちのすべての後ろめたさ、すべての罪、すべての神様から離れてしまった結果を、私たちの代わりに全てその身に引き受けてくださった。その十字架の犠牲によって、私たちは自分の努力や立派さによってではなく、ただキリストの恵みによって、神様の前に正しい者、ありのまま受け入れられ、愛される存在とされる。
この新しい歩みへの第一歩は、イエス・キリストの愛と赦しを自分の人生への贈り物として信じ、受け入れることである。難しく考える必要はない。心の中で静かに神様に祈ることから始めることができる。この一歩を踏み出すなら、私たちは決して一人ではない。神様がいつも共にいてくださり、同じ信仰を持つ仲間たちと共にこの新しい希望の旅路を歩んでいくことができる。