2025年05月04日「神は不公平か」

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聖書の言葉

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」マタイによる福音書 19章13節~20章16節

メッセージ

私たちは日常生活で「それはずるい」「えこひいき」「公平じゃない」と感じることがある。「公平さ」や「頑張った分だけ報われること」を大切にするのは自然なことだ。聖書が書かれた約二千年前の地中海世界では、「名誉と序列」が社会の根幹にあり、富や地位が神の祝福の証とされていた。現代の私たちも、形は変われど「序列」や「効率」、「コストに見合う効果」といった価値観の中で生きている。今日は、聖書の三つの場面を通して、人間の常識をひっくり返す神の「恵みの経済」について考える。

ある日、人々が子どもたちを主イエスのもとへ連れてきた。当時のユダヤ社会では、子どもは「一人前の人間」とは見なされず、弟子たちは子どもたちを追い払おうとした。しかし主イエスは憤り、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものなのだ」と言って、子どもたちを抱きしめ祝福した。これは当時の序列を超えた神からの直接の愛の表現であった。「このような者」とは、自分には誇れるものがないと知っていて、素直に神の助けと恵みを求める人のことである。私たちの受ける洗礼も聖餐も、達成したから与えられる「報酬」ではなく、神からの「贈り物」なのだ。

次の段落には金持ちの青年が登場する。この青年が主イエスのもとを訪れ、永遠の命を得る方法を尋ねた。当時は「富は限られている」という考えが強く、お金持ちは「神に特別に祝福された人」と見なされていた。主イエスは「持ち物を売り払い、貧しい人々に施し、わたしに従いなさい」と言った。青年は多くの財産があったため、悲しんで去った。これは単なる物惜しみではなく、財産は家族や社会的なつながりを守る命綱だったからだと考える専門家もいる。つまりの青年はものを惜しんだのみならず、自分の持っている人間関係をも惜しんだのである。だからこそ主イエスは弟子達との対話の中で、主イエスに従うことを説明する際に、家、兄弟、姉妹、父、といったものを列挙したのである。主イエスは「富んでいる者が神の国に入るのは難しい」と述べ、救いは人間の富や功績ではなく、神の力と恵みによることを教えた。

ぶどう園の主人が、朝早くから夕方までの様々な時間に労働者を雇い、全員に同じ1デナリオンを支払った。朝から働いた労働者たちは不平を言ったが、主人は「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。わたしの気前のよさをねたむのか」と答えた。この背景には、当時の「名誉」の概念があり、労働時間に関わらず同一賃金は「名誉の平準化」でもあった。このたとえは、神の恵みが人間の「働きぶり」ではなく、神の主権と恵みの気前よさによって分配されることを示している。

これらの話は、神の国の価値観が私たちの常識といかに異なるかを示している。神の世界では、この世で価値を置く「順番」や「能力」、「功績」はそれほど重要ではない。一番大切なのは、子どものように素直な心で神の前に出て、自分の力や正しさに頼るのをやめ、神からの「恵み」という最高のプレゼントをただ感謝して受け取ることだ。それは人間の小さな「公平さ」からすれば「不公平」に見えるかもしれないが、それこそが神の限りない、驚くべき愛の現れなのである。