2025年04月13日「十字架上の祈り」
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十字架上の祈り
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 23章26節~49節
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聖書の言葉
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。ルカによる福音書 23章26節~49節
メッセージ
今週は受難週であり、金曜日は受難日。本日はルカによる福音書23章26節~49節の十字架の場面。この出来事は単なる過去の悲劇ではなく、神の愛、人間の罪、絶望と希望、裁きと赦しが凝縮されたもの。ルカは、嘲笑と闇の渦巻くゴルゴタで、赦しに満ちた救い主、苦難を通して王国を打ち立てる王としてのイエスの真の姿を鮮やかに描き出す。
まず最初に記されているのはシモン。十字架への道において、予期せず十字架を背負わされたキレネ人シモンの姿は、私たちの人生における予期せぬ苦難を象徴すると同時に、エルサレムの街にイエスに敵対しなかった人々がいたことを示す。
ゴルゴタでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられ、三段階の嘲笑を受ける。議員、兵士、そして犯罪人の一人が「自分を救え」と嘲る言葉は、彼らの世俗的な価値観を示している。それは政治的・暴力的な力による解放だ。しかし、皮肉にも彼らの言葉はイエスの真の身分を指し示す。イエスの王権はこの世の権力とは異なり、苦しみの十字架の上にあり、支配は力ではなく赦しと愛による自己犠牲によって示される。
苦痛の中、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈る。これはルカ福音書における「赦し」のテーマの頂点であり、敵を愛するというイエスの教えの究極の実践である。この赦しの祈りは、当時の人々だけでなく、現代を生きる私たちにも向けられている。十字架は神の限りない赦しの招きである。
十字架につけられた犯罪人との対話は重要である。一人はイエスを罵るが、もう一人は自らの罪を認め、イエスに希望を託す。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という彼の信仰に対し、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束する。救いは、死の淵にある罪人にさえ信仰によって即座に与えられる。この出来事は、絶望的な状況でもイエスに向かう者に希望が開かれていることを伝えているのではないか。
正午に全地が暗闇に覆われ、神殿の垂れ幕が裂ける。この出来事は、単なる自然現象ではなく、この出来事の宇宙的な重要性と、神と人間を隔てる罪の壁がイエスの死によって打ち破られたことを象徴する。イエスは最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫び、父なる神への完全な信頼を示された。
イエスの死は周囲の人々に様々な反応を引き起こす。ローマの百人隊長はイエスの義を認め、群衆は胸を打ちながら帰っていく。イエスの知人やガリラヤからの女性たちは遠くから見つめる。これらの人々の姿は、十字架が人々に与える衝撃と、それぞれの応答のあり方を示す。
十字架は二千年後の私たちにも問いかける。私たちは十字架の下でどこに立っているのか。世俗的な価値観に囚われているのか、絶望しているのか、悔い改める備えがあるのか、十字架に神の救いを見出しているのか、心を揺さぶられているのか、あるいは遠くから見つめているのか。
十字架の物語は、神の無限の赦し、真の王の姿、救いの希望、神との新しい交わりの道、そして復活への希望を伝える。受難日を迎えるにあたり、私たちは十字架を見上げ、その赦しと恵みを受け取り、赦し、愛し、仕える者として生きる決意を新たにする時としたい。