2025年04月06日「原点に戻って」
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原点に戻って
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 19章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイによる福音書 19章1節~12節
メッセージ
この聖書箇所は、イエスが「原点に戻る」ことの重要性を示す箇所である。ガリラヤ宣教を終え、十字架を目前にしたイエスは、エルサレムへ向かう最後の旅路で、弟子たちに重要な教えを与え続けた。この旅は弟子たちの「再教育の場」であり、当時の常識とは異なる「天の国の価値観」を学ぶ期間であった。後に出てくる「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」「偉くなりたい者は仕える者になる」といった言葉は、世俗とは逆転した神の国の原則を示すものである。
その道中、ファリサイ派の人々がイエスを試す意図で離婚に関する問いを発した。これは単なる神学論争ではなく、直前の「無限の赦し」の教えや、バプテスマのヨハネ処刑に関わる政治的背景も絡む、悪意ある試みであった。核心は聖書解釈と生き方の問題である。当時のユダヤ教では申命記24章1節の離婚規定の解釈を巡り、ヒレル派はどんな理由でも離婚を認める寛容な立場、シャマイ派は不貞の場合のみとする厳格な立場をとっていた。しかし、その議論の本質は、自己の都合で結婚を解消する権利を求める自己中心的なものであった。これは、個人の幸福追求を優先し、都合が悪くなれば関係を解消しても当然と考える現代の風潮と通じる。
イエスは、この律法解釈論争に直接加わらず、創造の「初め(原点)」に立ち返るという全く異なる視点を示した。創世記を引用し、「創造主は初めから人を男と女に造られた」「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と述べ、結婚が神によって創られた神聖な制度であることを明らかにした。そして、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と断言した。これが結婚における「原点」である。結婚は人間の都合や社会慣習ではなく、神自身が定め、結び合わせる神聖な契約なのである。イエスは、人間の作った複雑な規則から、創造における神の本来の意図へと視点を向け直させた。
ファリサイ派は「ではなぜモーセは離縁状を命じたのか」と反論した。イエスは、モーセの規定が神の積極的な「命令」ではなく、人間の「心の頑なさ」、すなわち神への反抗的態度に対する「許可」であり、「譲歩」であったことを明確にした。初めからそうであったわけではないのである。律法の中には、神の完全な「理想」と、人間の弱さに配慮した「譲歩」が存在する。神は理想を示しつつも、弱さの中にある人間が生きる道をも備えられた。イエス自身も、「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と述べ、結婚の神聖さを強調しつつ、「不法な結婚」(姦通の罪など)の場合には離婚の余地があるという譲歩を示した。
イエスの教えは弟子たちに衝撃を与え、「それなら結婚しない方がましだ」という反応を引き出した。これは、男性の都合で離婚できた当時の男性優位社会の特権意識の発露であった。イエスはこの教えを通して男女間の公平性を図り、自己中心的な価値観を捨て、神の視点から結婚を見つめ直すよう弟子たちを「再教育」したのである。これは「天の国の革命的な価値観」を教えるプロセスの一環である。