2025年02月23日「探し求める愛」

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聖書の言葉

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」マタイによる福音書 18章10節~14節

メッセージ

本日の聖書箇所は、イエスが「小さな者」を軽んじないよう弟子たちに教える箇所である。ここでの「小さな者」とは、社会的地位や年齢に関わらず、取るに足らないと思われる存在であっても、神にとっては極めて大切な存在であることを示している。あなたがた一人一人は、たとえ自分が弱く、迷い、また過去に罪深いと感じることがあっても、神の御目にはかけがえのない宝であり、必ず救い出される対象であるというメッセージが込められているのだ。神は弱さを認め、自分の罪を自覚しながらも神に寄りすがろうとする人を受け入れてくださる。

この箇所では百匹の羊のうち一匹が迷い出たとき、羊飼いが残りの九十九匹を安全な場所に置き、その一匹を探し出すために必死に行動する様子が描かれている。この羊飼いの姿は、旧約聖書における神の姿を引き継いでいる。詩編23編では「主はわたしの羊飼い」と宣言され、神が自らの民を導き、養い、守ってくださる確かな存在であることが示されている。またエゼキエル書34章では、神が自ら不在の羊飼いたちを糾弾し、失われ散らばった羊を集め、傷ついた羊を癒すと語っている。一匹は100分の1ではなく、あくまでも一匹であり、これが神の眼差しなのだ。

イエスのたとえ話は、旧約聖書における神の羊飼いの姿を引き継いでいる。「迷い出る」とは完全な破滅を意味するのではなく、回復と再生への前兆であり、神の救いの働きが始まるところなのだ。あなたがもし罪や過ち、絶望の中にあっても、それは完全な喪失ではなく、一時的な状態にすぎず、神の愛によって必ず回復される可能性がある。

旧約聖書が示すように、神は民全体だけでなく一人一人の命に深い関心と情熱を持っている。詩編23編には「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる」と記されている。羊が草原で草を食べ、水を飲むイメージには、個々の必要に応じた配慮が込められている。マタイのたとえ話も、失われた一匹の羊が見つかるときの喜びを強調することで、神が個々の命をいかに大切にしておられるかを示している。

本日の聖書箇所は単なる古い物語ではなく、今日の私たちにも直接届く救いのメッセージである。もしかすると、私たちは自分自身を罪深い者、または救いの対象外の者だと感じているかもしれない。しかし、イエスは「人の子は、失われたものを救うために来た」と宣言している。この言葉は、誰一人として見過ごすことなく、神がすべての人を救い出すために身をささげた真実の証である。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、死に、そして復活することによって、新たな命と希望をもたらすために来られた。

もし今、私たちの心に一抹の迷いや不安、または罪の重みを感じるならば、その思いを神に委ねていただきたい。イエスは、私たちがどんなに遠くに迷い出たとしても、必ずその手を差し伸べ、正しい道に導くために来られた。神の救いの申し出は、過去の失敗や罪深さにかかわらず、すべての人に平等に与えられている。

神の救いの愛はどんなに小さな者でも見逃さず、必ず回復へと導く。私たちは皆、迷える羊かもしれないが、神はその迷いを決して放置することなく、一人一人を探し出し、愛情深く迎え入れる。自分の中に絶望があっても、自分の外には希望がある。私たち一人一人が、神の愛の対象であり、救いのために必要不可欠な存在なのである。