2025年02月02日「イエスの知恵と思いやり」
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イエスの知恵と思いやり
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 17章22節~27節
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聖書の言葉
一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」マタイによる福音書 17章22節~27節
メッセージ
本日の聖句には、二つの対照的なエピソードが記されている。一つは、イエスが再び、自身の受難と死、そして三日後の復活を弟子たちに予告された場面である。イエスは「人の子は人々の手に引き渡され、殺されるが、三日目に復活する」と宣言された。その「引き渡される」という言葉は、単なる裏切りの意味に留まらず、イエスがあえて人間の罪の重さを背負い、神の計画の中で自己犠牲の愛を成就される決意を示すものである。弟子たちはこの宣告に深い悲しみと恐れを抱き、その意味を十分に悟ることができなかった。しかし、イエスのこの受難予告は、人間の罪深さと神のあわれみ、さらにはキリストの無限の自己犠牲が、救いの計画の中心にあることを如実に表しているのである。
もう一つのエピソードは、神殿税の納付に関する出来事である。ここでは、ペトロとの会話を通して、イエスがあえて神殿税を納めるよう指示される姿が描かれている。神殿税とは、旧約聖書(出エジプト記30章16節)に記される通り、神殿の維持や祭儀の執行、祭司やレビ人の生活を支えるための献身の行為であり、単なる負担ではなく、神への献身と贖いの象徴である。その意味において、真の神であられるイエスは神殿税を納める義務はない。それにもかかわらず、弟子たちが躓かないよう、また人々に信仰に対する疑念を抱かせないよう、あえて魚を釣り出し、その中から神殿税の足りる銀貨を得るという、非常に奇抜でありながらも深い配慮に満ちた方法を選ばれたのである。この行為は、自然界すら従わせるイエスの権威を示すとともに、信徒の日常生活の中における些細な出来事すらも、神の摂理と救いの計画の中に含まれているという確信を、私たちに与えているのである。それは人々を「つまずかせない」ためであった。
このように、イエスは弟子たちや信徒たちが、つまずかないように配慮をしてくださる方である。弟子達にとっての最大の躓きは十字架-受難と死の現実―に直面する中でも、復活という希望の光によって、神との正しい関係を失わないよう、絶えず配慮と愛を注がれている。イエスが示された通り、どのような試練や困難に直面しても、神の愛と救いの計画は変わることなく、常に私たちを守り、導いてくださるのである。すなわち、受難と復活というイエスの生涯そのものが、私たちにとっての永遠の希望であり、信仰を堅持するための揺るぎない基盤となっているのである。
また、今回の神殿税のエピソードに見るように、神の配慮は決して大掛かりな奇跡だけに留まらず、日常の中にひそむささやかな出来事にも顕在している。ガリラヤという、イエスが宣教活動を始められた地は、ユダヤ人のみならず異邦人にも福音が及ぶ普遍的な愛の場であった。イエスは、ここで行われた奇跡や教えを通して、信徒たちに対し、どのような状況下にあっても神の愛に立ち返ること、そして信仰における真実を見失わないことの大切さを、確固たる形で示されているのである。
さらに、イエスのこの配慮深い行動は、私たち一人ひとりの信仰生活においても大いに示唆を与えている。私たちが日々の生活の中で遭遇する小さな困難や、人間関係、経済的な悩み、あるいは社会全体で起こる不正や不公正といった数々の「躓き」は、決して偶然に生じるものではなく、神が私たちに与えられた試練であると同時に、救いへの道しるべでもあると考えられる。イエスは、そのようなあらゆる状況下において、信徒が信仰の根幹を揺るがされることなく、むしろ神の愛と導きを体験し、信仰の確信を深めるよう、慈しみに満ちた仕方で導いてくださるのである。