2024年04月21日「しるしと信仰」

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聖書の言葉

すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」マタイによる福音書 12章38節~45節

メッセージ

聖書はときに人間を建物に例える。本日の聖書箇所では人を家に例えている。家の中には部屋がある。それがいわば心である。この心に誰を招くのか。それが、私たちの歩みを決める。

マタイによる福音書12章38節から45節では、イエス・キリストとファリサイ派や律法学者との論争が描かれている。ファリサイ派や律法学者は熱心に神を礼拝していたが、その熱心さゆえにイエス・キリストと対立した。彼らはイエスを恨み、ついにはイエスを十字架につけようと決意するに至った。こうした律法主義とよばれる人々との戦いは、イエスが十字架につけられ、復活し、天に昇られた後も、教会の歴史の中で続いていく。教会がその歴史の中で戦ってきた相手の一つが、この律法主義なのである。

律法主義とは、定められた決まりを守ることによって自らの救いを担保しようとすることだ。神の言葉を守ることは良いことだが、そのことによって他者を裁くようになると問題である。自分を人よりも高いところに置き、自分の信仰を誇るようになるからだ。そして聖書が明瞭に述べているように律法主義では救われない。それは救われている「しるし」を行いによって得ようとする試みだといってもよい。私たちは、自分の欲しいしるしを求めるのではなく、神が与えてくださるしるしを受け取るべきである。そのしるしとは、イエス・キリストだ。

イエスは空き家の例えを語られた(43節以後)。悪霊が人から出て行った後、再びその人のもとに戻ってくると、その人は最初よりもさらに悪い状態に陥ってしまう。この空き家のとはファリサイ派の人々の心を表している。ファリサイ派の人々は信仰に熱心だったが、そこに神はいなかった。神不在の信仰は、外見が良くても中身が伴っていない。それは、自分が主人になっているか、部屋が空っぽになっているかのどちらかである。見てくれは良いが、それは本来の姿とは異なる。律法主義は、外面的な規則や儀式にこだわり、心の内面や真の信仰をないがしろにする。それは、まるで悪霊が出て行った後、きれいに掃除された部屋のような状態だ。しかし、真の信仰がなければ、その空虚な心には再び悪霊が住み着いてしまう。

本当の信仰とは、イエス・キリストとの個人的な関係であり、キリストが頭であるキリストの教会に連なること。律法主義は、熱心なのは良いが、それを他人に求めるようになると、自分以外の誰かの部屋に自分が乗り込むことになる。それは、親子関係や夫婦関係、友達との関係、教会と社会など、様々な面で起きていることだ。しかし、外見が良くても中身が伴っていないのであれば、それは本当に良いことなのだろうか。

私たちが本当に愛し合うことができるのは、自分の心にイエス・キリストを迎え入れるときである。空っぽの心では、人を愛することができない。部屋の掃除もイエス・キリストにお任せしよう。十字架と復活のイエス・キリストを信じるとき、私たちは本当の愛や生きる力を得るのである。しるしを求めるのは愛ではない。もし、夫婦がお互いにしるしを見せ合わなければ愛し合えないのであれば、それは歪んだ愛情ではないか。神が与えて下さった「しるし」であるイエス・キリストを心に迎え入れ、このお方を信じるとき、私たちは真の愛と生きる力を得ることができるのだ。