2024年03月24日「あなたの罪は赦される」

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あなたの罪は赦される

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マルコによる福音書 2章1節~12節

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聖書の言葉

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。マルコによる福音書 2章1節~12節

メッセージ

マルコによる福音書はもっとも古い福音書だと考えられている。福音書はキリストの行動や言葉を書き記したもの。それでは、マルコによる福音書では何をつたえようとしているのか。冒頭にはこう記されている。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1章1節)。イエス・キリストは神の独り子である。そして、このお方が神様の素晴らしさを伝えるために、この世界にこられた。それまで遠くにあった神の国がぐっと近づいた。キリストは救い主としてお働きを始められる時にこういわれた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。悔い改めて、キリストが救い主であるという福音を信じる時、私たちは神の国の一員となる。それがこの書物を貫くメッセージ。

マルコによる福音書2章1-12節では、イエス・キリストがカファルナウムという街で中風(体が麻痺により動かなくなること)の男性を癒す出来事が記されている。イエスはすでにこの街で癒しの出来事を行った。そうしたこともあり、この街の人々はイエスが様々な思い煩いから解放してくださるお方だと信じていた。この中風の男は4人の男によって運ばれ、イエスのもとに連れてこられた。イエスが滞在していた家が人々で満ちていたため、屋根から吊るして降ろさなければならなかった。

イエスはこの男性たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言された。これを聞いた律法学者(旧約聖書の専門家)たちは、イエスが冒涜的な発言をしていると考えた。なぜなら、神のみが罪を赦すことができると考えていたから。罪とは、神に対して犯すもの。そうだとすれば、それを赦すことができるのはただ神である。そして、人が自らをまるで神のように振る舞うことは、当時のユダヤ人が最も嫌っていたこと。しかしイエスは、自分には罪を赦す権威があることを示すために、中風の男性に「起き上がって、床を担いで家に帰りなさい」と命じられた。男性はすぐさまそのようにし、皆の前で立ち上がり、床を担いで出て行ったと聖書は語る。そして群衆はこれを見て驚き、神を賛美した。

この物語は、中風からの回復つまりは肉体の回復と罪の赦しが一体的に語られている。そして、イエス・キリストというお方がもたらすのは単なる肉体的な癒しを超えた、より深い赦しだということを伝えている。聖書では肉体の癒しと罪の赦しが密接に関係している。すべての病や死は人間の罪の結果であり、その意味で、あらゆる癒しは罪に対する神の恵み深い働きかけだと言える。癒しとは、人の人生に働く死のしるしである枯れや衰えに対する神の恵み深い動きである。人間が死の重圧にさらされながら生きることは、神の意図するところではない。病気、死は、すべての人の罪深い状態の結果である。その結果、すべての癒しは死を追い返すこと。だからこそ、イエスが罪の赦しを宣言することは適切なのである。罪の赦しと体の回復は決して無関係ではない。イエスは罪を根本から赦し、人生を完全に立て直す力を持つお方。このキリストの力は復活という御業によって鮮やかに示された。復活は死に対する勝利。死に勝利をしたその力で、キリストは私たちを包んでくださる。中風の男が起き上がったように、起き上がることができる。

教会に集う一人一人が、この恵みをさらに深く体験することができますように。そのために必要なのは、自分の罪を認め、イエスのところに出て行く勇気と決断。たとえ自分では歩むことができなくても、信仰の友に助けてもらいながら歩む。今日、もしあなたがまだ洗礼の恵みを受けていないのなら、今こそ、洗礼を受け、教会の交わりに加えられることをおすすめしたい。遅すぎるということはない。今が救いの時なのだ。