2024年03月03日「手を差し伸べるイエス」

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手を差し伸べるイエス

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章9節~21節

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聖書の言葉

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」マタイによる福音書 12章9節~21節

メッセージ

15節~21節の段落には「正義」という言葉が2回登場する。先日の金曜集会でホセア書5章を学んだ。旧約聖書では「正義」と「裁き」は同じ言葉。聖書の伝える裁きは神の正義と表裏一体。そして神の正義は人を生かすために行われるもの。神の取り扱いは傷ついた葦を折ることなく、今にも消えそうな灯りを消さずにそっと守るようなもの。9節~14節はこのキリストの姿を描いている。それはイエスの正義と憐れみといっても良い。

安息日にイエスと弟子達は会堂にお入りになった。そこには手の萎えた人がいた。当時、体にハンディを持つ人に対する周りの目は冷ややかだった。この人、もしくはこの人の家族が罪を犯したのだと人々は考えていた。そのような視線を感じながらこの人は会堂に集っていた。周りの人々はこの人をイエスを貶めるために利用する。安息日にこの人を治すのは律法にかなっているか、と。イエスはこの人に語りかけ、腕を癒し、元通りにされた。しかし、律法を重んじるユダヤ人たちは、安息日の癒しを律法違反とみなしたのだ。安息日には労働が禁じられていた。イエスの癒しは彼らからみれば労働だと思われたのだ。しかし、イエスは、人を生かすことこそが安息日の本質であると説いたのである。だからこそ、片手が萎えた人を癒すのは「善いこと」なのである。イエスは、羊の例えを用いて安息日であっても、困っている人がいれば助けるべきだと教えたのだ。それは、律法の形式的な側面よりも、その精神を重視するという、イエスの律法解釈の特徴を示しているのである。律法で労働を禁じているのは、もともとは神礼拝に集中するため。しかしそこから歴史の中で労働しないことが中心となった。イエスは本来あるべき姿を伝えたのである。

片手の萎えた人は孤独な存在であった。周囲の人々は彼を疎んじ、憐れみの目を向けることもなかったのだ。しかし、イエスは彼に手を差し伸べ、癒しと回復をもたらしたのである。ここには回復がある。神の子としての尊厳を取り戻す出来事であったのだ。イエスは、社会から疎外され、孤独に苦しむ人々に寄り添い、その価値を認め、新しい生命を与えるのである。

しかし、ユダヤ人たちはイエスに敵意を抱いたのだ。律法違反に加え、自分たちの罪を指摘され、自らの傲慢な思いをイエスによってあぶり出されたから。彼らは、自分たちの優越感を保つために、弱い立場の人々を見下すことに慣れてしまっていたのだ。イエスの行動は、そのような彼らの心の在り方を問い直すものであり、彼らは自分たちの罪を直視することを拒んだのである。

イエスは私たちにもご自分のところに来るように、恵みを受けるよう招いているのだ。私たちは、自分の弱さや傷つきを認め、イエスの憐れみをいただく必要がある。そして、イエスの正義に生かされるなら、私たちも誰かのためによく生きる奉仕者となれるのだ。私たちは、イエスに倣って、困難な状況にある人々に手を差し伸べ、その存在価値を認め、希望をもたらすことが求められているのである。それが、キリスト者としての生き方なのだ。