2025年10月19日「人々を救うために」

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人々を救うために

日付
説教
久保田証一 牧師
聖書
テモテへの手紙一 4章6節~16節

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「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」4章16節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
テモテへの手紙一 4章6節~16節

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   「人々を救うために」 テモテへの手紙一 4章6~16節                          2025.10.19
 昨日は、教会の一日修養会を行いました。今年の年間標語である「生ける神の教会として立つ」という主題のもとに、教会がこの世に立てられていることの意味と、その実態について、聖書と教会規程から学びました。今日はそれも踏まえながら、このテモテへの手紙から御言葉に聞きます。昨日参加できなかった方々も、書かれたものを見ていただけます。昨日参加された方にとっては、多少繰り返しになる部分もあるかもしれませんが、今日は礼拝で神の御言葉そのものを聞く、ということに重点を置いて話します。

1.キリストの奉仕者として
 テモテは、使徒パウロの宣教によって信仰に導かれました。彼は父親がギリシャ人、母親はユダヤ教から回心したクリスチャンでした(使徒言行録16章1節)。彼は評判の良い人で、パウロは彼を働きに同伴させました。その後もパウロの宣教旅行に同行しました。そしてエフェソの教会で伝道者・牧者として勤めるようになります。この手紙は、若いテモテが教会において様々な困難の中でも、よく働きを行えるように、助言指導し、励ましを書き送ったものです。この4章では、背教の予告という見出しがあるように、惑わす霊に心を奪われて信仰から脱落する者すら出てくるとパウロは書いています。
 6節の「これらのこと」とは、ここまで書いてきたことを指して言っています。偽りを語る者たちが教会の中にも入ってくるので、それらを退けるべきですが、信心のために自分を鍛えるようにと命じています。体の鍛錬をすることで俗悪で愚にもつかないものから逃れることもできるでしょう。健全な生活をして体をよく保つことも大事ですが、何より信仰に基づく生活を整えるようにと教えます。これはテモテ自身のことだけでなく、信徒の人たちにそのように教えなさいということです。それが信じた者たちの救い主である生ける神に希望を置く者としてふさわしいのだと。
テモテは年が若いけれども、その理由で軽んじられてはならない、とパウロは言います。おそらくテモテは30歳程度だったと思われます。年長者からみると30歳くらいの人は、まだ人生経験も少なくて、軽んじられやすいのは今も昔も同じでしょう。主イエスも年およそ30歳の時に宣教活動を始められました。
 パウロは、テモテに対して、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で信者たちの模範となるように命じています。ここに挙げられた五つのことは、どれか一つだけとっても、誰かの模範になるのは簡単ではありません。これらのことを完璧にやっていますと胸を張って言えるような人は、普通の人間の中にはいないと言えるかもしれません。主イエスのほかに、これを真に実現できる人はいないと言えます。しかしそれでもパウロがそれを命じるのは、やはり主イエスがくださった救いの恵みが大変大きな恵みであって、私たちはそれにどれほど感謝して応えても、し尽くすことはできないからです。これを命じられたテモテがそれを立派にやっているとしても、それによって自分の罪の贖いが成し遂げられるわけではありません。私たちがどれほど立派な行いや振る舞いをしたとしても、それが罪の赦しと救いの根拠にはならないのです。そして、私たちがいくら頑張っても罪の贖いを成し遂げることはできないからこそ、主イエスにまったくより頼んで、その御心に近づくように生きるのです。

2.聖書の朗読と勧めと教えに専念する
 そして、テモテが最も大事なこととして専念すべきことは、聖書の朗読と勧めと教えです。聖書は、この時にはまだ旧約聖書のみです。しかしこのパウロの手紙自体も後に教会は新約聖書として、旧約聖書と同等の権威ある神の御言葉として受け入れるようになります。礼拝で、最も長い時間を取っているのは、日本キリスト改革派教会では、説教だと言えます。およそどこの教会でもそうかもしれません。礼拝時間の半分ほどを占めています。それで礼拝は説教を聞きに行くことに重点があると思っている方もあるようです。確かに説教の占める位置は大きいですが、ここでパウロが言うように、聖書の朗読がまず非常に大事です。言ってみれば、説教者がいなかったとしても聖書の朗読があれば礼拝はできます。しかし聖書朗読なしに説教だけというのは公的礼拝としては成り立たないと言えます。聖書が朗読されるということは、そこで行われる礼拝において、集まった者たちは神の御言葉にまず耳を傾ける信仰の姿勢を持っていることの表明です。そこでは、私たちの信仰と生活の規準は聖書、即ち神の御言葉であって、それ以外のものは、私たちの信仰と救いについて権威あるものとはならない、ということを表しています。
 勧めとは信徒たちが信仰によって神の御言葉に従って生きていくために、クリスチャンとして生きる道を教えるものです。いわば今日の説教に当たります。そして教えとは、聖書に示された神の教えそのものです。

3.人々を救うための働き
 テモテは、この務めを果たすために、神の恵みの賜物を受けました。それは、テモテが牧師として立てられる時に長老たちが手を置いた時に預言によって与えられたものでした。初代教会には、旧約聖書の預言者とはまた違う預言者がいました。その預言者たちの言葉によってテモテが選ばれたのかもしれません。初代教会のまだ使徒たちが世にいた時には、特別なことが行われていましたので、テモテが選ばれて牧師として任ぜられる時にも、そのような一連のことがあったのだと思われます。今日では、私たちは選挙によってその会衆にふさわしい働き人が誰であるかを選出して、そしてその人に長老たちが手を置く按手によって正式に職に任じ、その働きがキリストから来ているという権威ある承認を与えるのです。長老たちがテモテに手を置いた、ということが重要で、長老制の基本的なことが示されています。一人ではなく、複数の長老たちが先に存在していて、その人たちが手を置くという按手と呼ばれる儀式を通して、その人が牧師や長老に任ぜられるのです。
 そしてこれらのことに努めなさい、パウロは命じます。これはスポーツの選手のように練習に努め、稽古し、訓練するということで、聖書の朗読と勧めと教えについてみても、それに習熟するように努めていきなさい、と勧めているのです。そこから離れてはならないと言われています。そこにいなさい、という言い方です。私たちは与えられている仕事や務めについている時に、いろいろと大変なことや困難なことも起こってきますがそれに左右されたり、振り回されたりして与えられた務めに落ち着いて留まることをしなくなるようなことがあってはならないのです。テモテはいかに若くとも、主の御心によって教会において牧者として立てられているのですから、これらの勧めを行いなさい、とパウロは命じます。実際、テモテがとても苦労していたであろうことは、テモテへの手紙二を見るとわかります。パウロはテモテに、按手によって与えられている神の賜物を再び燃え立たせるようにと言っています(テモテへの手紙二 1章4節~6節)。現代では燃え尽き症候群などという名称を付けられている精神の状態もあります。テモテはそういう状態になりかかっていたのかもしれません。それでもその務めに留まりなさい、とパウロは激励します。それはテモテ自身にとっても、テモテの言葉を聞く人たちについても、救いのために必要なことだからです。
 もちろん、テモテの働き自体が人を救うのではありませんが、テモテが伝道者、牧者としての働きをよく行うことによってより救いが確かなものとして明らかになってくるし、自分をも人をも救いに力強く導くことになる、という意味で言われているのだと思います。
 これは、複数の長老たちが立てられていて、テモテに手を置く、つまり按手をしたのも、ひいては人々の救いのために教会とその中で行われるいろいろな働きや奉仕が有効に働くためです。ただ単に人が集まる組織をうまく回していくために、また秩序を保つためにということ自体ではなく、それをよく保つことが教会に連なる人々を救いに導くために有効に用いられるからです。教会が立てられているのは、主なる神の目的に沿っていることです。イエス・キリストによる神の大きな御計画が地上で進められており、やがて神の国が完成するために、教会の組織も秩序も用いられているものです。形を整えることが目的なのではなく、神の国へ向かってこの世の旅路を続けている教会と信徒たちが、この世の荒波の中で信仰にしっかりと立つために、地上の教会に長老たちを立て、それによって牧者たちも立てられ、信徒たちが育てられ、成長していけるように主である神がお考えになってそのような仕組みを教会に備えられたのです。地上の教会はまだ不完全であり、人の弱さも抱えています。それでも人の務めを主は用いられます。
 だから、この世の教会、そして各人が属している教会が、人々の救いのために生かされ、整えられ、この世と来るべき世で永遠の命を約束された者として一人一人がキリストにつながっていけるように、と主は人の働きを用いておられるのです。私たちもまた、この世にある教会として、主の御心に従って「言葉、行動、愛、信仰、純潔」などについて世に対して模範となるように召し出されているのです。

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