名が天に書き記されている
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- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 10章13節~20節
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」10章20節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 10章13節~20節
「名が天に書き記されている」 ルカによる福音書 10章13~20節 2025.10.12
主イエスは、七十二人を選んでご自分が行こうとする町や村に先に遣わされました。その際、そこに住む人々が受け入れないなら、どのような宣告をするべきかを教えられました。神の国が近づいたことは知っておくように、というものでした。それは、大したことのない、世の中の小さなことなのではなく、この世界に対する神の裁きの時に関わってくるほどの重大なことである、ということを私たちは知らねばなりません。
1.とうの昔に悔い改めたに違いない
イエスがこの世にお生まれになり、そして神の国の福音を宣教し始めたことは、偶々イエスがほかの人よりも信仰が厚く、強いから、特に神様の御言葉を人よりも良く理解して教えている、というような程度のことではありません。イエスこそ、世に来るべきお方であり、この方のなさることは世界に対する神の語り掛けであり、先刻でもあります。だから、イエスを拒むことは、神を拒むことなのです。
コラジンとは、ガリラヤ湖の北方、約4キロメートルの所にある町ですが、そこでイエスが何をなさったかは伝えられていません。ベトサイダも同様です。ティルスとシドンは地中海沿いの町で商業都市であり、悪事のはびこる町、快楽と高慢と偶像礼拝の町でした。旧約預言者たちも厳しい審判の託宣を述べています(イザヤ書23章、エレミヤ書25章22節)。ティルスは、後に主が顧みてくださるけれども再び悪事を行うと言われています。そのティルスとシドンでイエスが行われたような御業がなされれば、人々はとうの昔に悔い改めたであろう、と言われています。それほどに、直接神のもとから来られたメシア、救い主である方を拒んだ罪は重いのです。
カファルナウムは主イエスが住まわれた町でもあるので、それはなおさら罪が重いと言えます。カファルナウムはやはり通商の要所であって繫栄し、大きな商業都市となっていたのでした。商売が盛んであること自体が悪いわけではありません。しかし、富が増えて栄えると、人は主を恐れてへりくだることをしなくなるかもしれません。そしてイエスの遣わされた弟子たちを拒むことはイエスを拒むことであり、それはすなわち天の神を拒むことであると主イエスは厳しく言われました。このように言われているからには、教会に与えられている使命がいかに大きいかもまた教えられます。世に対するそれほど決定的な役目をいただいているのが主イエスに遣わされたものだからです。
2.悪霊さえも屈服する権威
17節以下には、七十二人が喜んで帰ってきた記事が記されます。彼らがどれほどの期間、出かけて行っていたのかはわかりません。ここでルカが重要なこととして記しているのは、七十二人が悪霊どもさえ自分たちに屈服するという報告を喜んで行っていることに関してでした。主イエスのお名前が示されると悪霊どもでさえ、弟子たちに従うのでした。悪霊どもは、イエスが何者であるかを知っていました(4章34節)。人間の世界では、だれがどこの国の支配者であるかという情報が共有されていて互いに知っています。人間の力の及ばない霊の世界においては、悪霊どもにさえ、イエスの神の御子としての存在が知られていたのでした。そのイエスの御名が弟子たちによって告げられると、悪霊たちは従うしかありませんでした。それはイエスが弟子たちに権威を授けたからなのでした。そのイエスはサタン、即ち悪魔が天から落ちるのを見ていたのでした。もともと天使の一人であったと考えられるサタンは、神に逆らったことによって天から追放されたとみられ、それを表わすこととしてこのように言われているのです。サタンが滅びたことを言っているわけではありませんが、神と天使たちのいる天から落とされたことで、もはや天使たちのように神に仕えて良き働きをする者たちと居場所を共にはできなくなったわけです。そしてそれもまた神の御子としてのイエスの権威によっています。神の御子は、天使たちよりも優れた者であられます(ヘブライ1章4節)。そして、すべての権威の上におられる方なのです(コロサイ1章16、17節)。「蛇やさそり」とは要するに人に害を与えるあらゆるもの、悪魔=サタンが用いる道具や手段などを示します。そういったものをひっくるめて私たち人間に敵対し、神から引き離そうとする力に打ち勝つ権威を主イエスは弟子たちにお授けになりました。
これは、実に感謝すべきことです。主イエスがもしも、人を神から引き離そうとする者の力と同等の力しか持っていなかったり、あるいは勝てるかどうかわからないのならば、私たちは何と頼りないことでしょうか。しかしそのようなことはもちろんなく、主イエスは私たちの敵である悪魔=サタンのあらゆる力に打ち勝つ権威をお持ちです。
3.名が天に書き記されている喜び
その権威によって、自分たちも悪霊を追い出すことのできた七十二人は、悪霊さえも自分たちに従うことを喜んで、嬉々として主イエスに報告しているように見えます。しかしイエスはそれを喜んではならない、と言われます。それは喜ぶべき第一のことではないのです。私たちは自分の思い通りに力を奮えるとしたらそれは実に愉快なことなのではないでしょうか。しかし現実の世界では思い通りに人を操ったり、敵を倒したり、空を飛んだり、というようなことはできません。だから想像上の物語や映画に没入し、そしてゲームなどの世界で力を思い通りに奮うことに楽しみを覚えて夢中になり、現実の世界ではそれができないから、仮想の世界で思い切り暴れたりするのでしょう。
主イエスは、弟子たちが悪霊を屈服させることを面白がったり、誇ったりすることではなく、自分の名が天に記されていることを喜びなさい、と言われました。天に記されている、とは、神のもとに記録簿のようなものがあって、ご自分の民は予め名前が書き留められているということです。主イエスに結び付けられ、主イエスから遣わされた弟子たちは、予め主イエスがお選びになった人々なのでした。神のもとに、ある書物があって、そこに誰彼の名が記されている、ということはモーセの時に言われています(出エジプト記32章32節)。また、命を得る者として書き記されている者たちがいること(イザヤ書4章3節)、はっきりと救われる者の名が記されている「あの書」なるものがあること(ダニエル書12章1節)も、旧約聖書では言われておりました。主イエスもそのように、神のもとに、永遠の命を受け、救われる民として名が記されている者たちがいることを示しておられます。
弟子たちは、悪霊どもが自分たちに屈服することよりも、天において、自分の名が書き記されていること、救いの恵みにあずかっていることをこそ喜ぶべきなのです。ここで主イエスが、悪霊が服従することを喜んではならない、と言われたことは、とても大事な意味があります。悪霊が服従することを喜んでもいいけれども、一番喜ぶべきは、天に名が記されていることだ、とは言われなかったのです。つまり何を喜ぶべきかをよくよく弁えて、ピントの外れた所で喜んではならないのです。そもそも、自分たちの力で悪霊を屈服させられるわけではありません。あくまでも主イエスがその権威を授けてくれたからにほかなりません。悪霊を服従させることは神のものとしてお選びになったからこそ与えられた役目としての働きであり、働きをする前からお選びになっていることを忘れてはなりません。
今日の私たちも一緒です。主イエスを信じるようにされたのは、天に名が書き記されているからです。この世で神様からいただいた様々な恵みによって生活し、祝福され、そして大事な役目も受けているとしたら、私たちは何を喜ぶべきでしょうか。この世で健康な体や、良い生活や、良き働きをしていることを喜ぶよりも、神のもとに名前が書き記されて、主イエスの十字架の贖いにあずからせていただくように初めから選ばれていること、それを喜ぶのです。
これは、主イエスが語られたたとえ話を思い出させます。神殿に上って祈ったファリサイ派の人は、自分が他の人たちのように悪事を働く者でなく、週に二度断食していることや、全収入の十分の一を献げていることを神に感謝しました。それは神の前に高ぶることであって、神はその人を喜ばれず、義とは認めなかったのでした(ルカ18章9節以下)。今日の個所でも主イエスは弟子たちの高ぶりを戒めておられます。悪霊が服従することを喜ぶのは、自分たちを誇り高ぶることにすぐにつながってしまい易いので、主イエスは釘を刺しておられます。自分に何ができた、こんな素晴らしい働きができた、悪霊にすら打ち勝つ力が与えられている、という恵みの結果ばかり注目するのではなく、無償で選び、みもとに名前を書き留めてくださっていることに感謝して喜ぶべきなのです。主イエスは私たちの羊飼いとして、私たちの名前を知り、一人一人その名を呼んで連れ出し、ついていけるようにしてくださったのでした(ヨハネ10章3節)。主イエスの羊としていただいている。それが私たちの最大の喜びであります。
