神の国が近づいたと知れ
- 日付
- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 10章1節~12節
「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」(10章8~12節)日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 10章1節~12節
「神の国が近づいたと知れ」 ルカによる福音書 10章1~12節 2025.10.5
主イエスはこの世に生きる私たちに対して、神の国をもたらしてくださいました。神の国とは何か、どんなものか。今現代に生きる私たちには、わかりにくいでしょう。聖書に親しみ、信仰によって生きてこられた信徒の方々にとっても、それが手に取るようにわかっているわけではないと思いますが、主イエスがそう言われたので、信じているのです。しかし聖書の内容に初めて触れる方々にとっては、神の国が近づいた、と言われてもなかなかピンと来ない、かもしれません。今日は、その神の国が近づいているのだ、と言われた主イエスの御言葉に聞きます。
1.神の国を知らせるために遣わされる
主イエスは使徒と呼ばれる12人の弟子たちのほかに、72人を選んで二人ずつの組にしてご自身が行くつもりである町や村に遣わされました。この記事はルカだけが書いています。新約聖書の写本によっては、70人としているものもあります。創世記の10章の諸民族一覧表に出る名称が七十ほどあります。また、モーセの時、70人の長老が選ばれてモーセを助けました。ユダヤの最高議会は70人で構成されます。このような象徴的なものです。
この72人は、主イエスがこれから行こうとしている町や村に先に遣わされました。救い主なるイエスが来られる前に、先ぶれとして伝えるのでした。既に12弟子たちが遣わされて、悪霊を追い出し、神の国を宣べ伝えましたが、72人も同様に神の国が近づいたことを告げ知らせ、病人をいやして巡り歩くように送り出されました。これは主イエスの復活前の宣教ですが、福音書が書かれた時は、主イエスが天に昇られた後です。教会の宣教活動も始まっています。この主イエスの教えは、そういう宣教の働きにつく人々に対して、何を心がけていくかを教えています。
まず、宣教に当たっては、それは狼の群れに小羊を送り込むようだと主は言われます。また、迎え入れられない場合もあります。送り出されるものからすると、不安材料が大きいです。しかし、収穫は多いと言われています。必ず収穫はあるので、そこに希望があります。そしてここでの「収穫の主」とは他でもない、イエスご自身です。主イエスは27人を遣わす権威を持ち、そしてまた収穫を必ずもたらす力をお持ちなのです。そして、財布も袋も履物も持っていくな、途中でだれにも挨拶するなという戒めは、この世のあらゆる力や人間関係等によって、神の国を宣べ伝える働きが妨げられないようにしなさいという意味です。主イエスは別の所で「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と言われました(マタイ5章47節)。隣人への挨拶は、むしろ進んですべきことです。主イエスが言っておられるのは、神の国を伝える働きの中で、この世のことに関わるあまり、すべき働きが疎かにならないようにとの戒めです。財布等も持っていくなというのも同じです。今日、伝道者も宣教師も、住む所を考えず、無計画にある町に何も持たずにいきなり入って行ってやりなさい、と言うわけではありません。
2.平和を告げ知らせよ
そして何を告げ知らせるのでしょうか。「この家に平和があるように」という宣言です。主イエスが世に来られたことにより、神と人との間に和解がもたらされます。人が神に対して罪を犯したので、人は自らを神に敵対する者としてしまいました。しかしイエスによって神の平和が到来しました。イエスの御業を見、御言葉を聞く人たちが、起こされてきます。そして弟子たちの宣教を信じて信仰の道に入ってきます。平和の子がいるとは、イエスの福音を聞いて信じる人が起こされることです。神の御言葉に対して、へりくだって信頼してくる人は必ず起こされるのです。
主イエスを救い主と信じる者たちは、教会として、地上に姿を現して一つのまとまった形をとっていきます。それは神の国を言い広める(9章60節)という大変重要な使命を与えられています。それは神との平和な関係を樹立できる、という良き知らせです。神との平和な関係を築いていただけるなら、私たちには魂の居所が与えられ、たとえこの世では冷遇されても、神が迎え入れてくれます。そして、それは、働き人のために支援をし、必要な助けを与えてくれる人も必ずいる、ということです。それを主は示しておられます。
この世では、働いた人が報酬を得るのは、何かを売った利益によります。ここで主イエスが言っておられる段階では、教会として何も組織だったものはありません。物を売って収益を上げるわけでもありません。しかし、目には見えない神の国のために働く人に対して様々な援助をしてくれる人が備えられています。目には見えなくとも、天地の主である方が、その御国の進展と完成のためにすべてを支配するその御力によって、世の人々をも用いてくださるからです。神の国の福音を告げ知らせることによって、神と人との和解がイエス・キリストによって成り立つのだということがその人に伝わり、その人が受け入れるなら、その人は神との平和の内に入れられます。だから、その家に平和の子、つまり神との平和を受け入れる人がいるなら、神の平和はその人に留まります。だとすれば、その人が神の国のために働く人に何らかの支援をしているということは、それにより神に仕え、神に献げていることになるのです。
3.神の国が近づいたことを知れ
しかし、そういう人たちばかりではありません。迎え入れない人たちもいるのです。主イエスによる神の国の知らせを受け付けず、迎え入れないならば、大変厳しい言葉が待っています。かの日、つまり神がすべてを裁き、世の終わりを来たらせて神の国を完成される時に、神からの罰を受けることになると。ソドムのことが言われていますが、創世記にソドムとゴモラの話があります。アブラハムの甥のロトが住んだ町ですが、大変邪悪な人たちがいました。いわば無法がはびこる非道徳的な乱れた生活環境でした。そして神のもとから下った火によって滅ぼされた町です。そのソドムの方がまだ軽い罰で済むというのだから、大変重い罪です。なぜなら、神のもとから来た救い主であるイエスによる神の国の福音を受け付けないのは、自分から神の裁きを招きいれ、決定的な裁きを自分にもたらすことになるのです。ソドムの人たちは無法な振る舞いをしていましたが、神の御子イエスが来られたわけではありませんでした。そのほど、イエスによる神の国の福音を拒絶することは厳しい罰に値するのです。
しかしこれは、今日の私たちの宣教活動という点からすると付け加えておく必要があります。今日、キリスト教会の宣教に耳を傾けない人々は確かにいます。例えば、伝道してもなかなか聞き入れない家族や友人知人はいるでしょう。その人たちをここに言われている人たちとすぐに同じだと見ないことです。確かに最終的に、あくまでも拒絶し、反対し、逆らい通すなら最終的にはかの日に神の審判が待っています。しかしそこに至るまで、私たちが先走って誰それは神の国の知らせを受け付けないからソドムよりも厳しい罰を受ける、と見切ってしまうことはできません。
ただし、神の国は近づいたのだ、ということははっきり知らねばなりません。これはある面、伝える側の覚悟でもあります。それほどに大事な、重要なことを主イエスの御名のもとに告げ知らせているのだ、という自覚がまず必要です。「神の国が近づいたことを知れ」と言うなら、言っている側がそれほど重要なことを言っているのだ、と自覚していなければ、その重要性と緊迫性が伝わるはずもありません。それほど大事なこととして私はそれを受け止めて生きているのだ、という自覚です。そして教会としてこの世の中でその大きな、重い使命をいただいているのだと。だから教会はこの世において神の国の出先機関でもあるのです。神の国のことは教会こそが、また教会でなければ世に対して告げ知らせることができません。だから教会は世界中に立てられていく必要があり、立てられてきたのです。
私たちも今日、それを受け継いでいます。そして収穫の主であるイエス・キリストに祈り願います。収穫のために働き手を送ってくださいと。既に教会には働き手がいます。私たち一人一人がそうです。その中で牧師や教師たちは特に重い責任を受けていますから、より厳しい裁きを受ける、とヤコブはその手紙に書いています(3章1節)。だったら多くの人が尻込みして牧師・教師や宣教師などにならない方がよいと思って誰もならなかったらどうでしょうか。神の国の福音は、信徒たちの手を通して伝えられては行きますが、やはり初めから主は特にその働きに就く人々を備えておられます。モーセも旧約聖書最大の預言者と言えますが、最後の最後、目的のカナンの地に入る前に世を去りました。それはある時モーセが主の御命令をその通りに行わなかったことに対する報いでした。もちろんそれはあくまでもこの世での話ですが。そして私たちはその厳しい裁きが教師たちにどう下るかも判別できません。何かがある教師の身に起こったから、あの教師は罰を受けているのだ、とか言えません。
そういうことも踏まえながら、私たちは教会としてこの世にイエス・キリストによる神の国の良き知らせを告げ知らせ続けます。それは世の終わりまで続きます。そして私たちはそれぞれの時代の中で与えられた場で生き、この働きにあずかっていくのです。収穫の主に、神の国の完成に至るまで、私たちを助け導いてくださり、必要な力と知恵を授け、さらに共に歩む羊を加えてくださるように私たち地上の教会は祈り続けます。
