「命を失うか、救うか」
- 日付
- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 9章18節~27節
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』」(23,24節)。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 9章18節~27節
「命を失うか、救うか」 ルカによる福音書 9章18~27節 2025.7.13
五千人以上のもの人々にパンと魚を十分に与えて食べさせ、群衆は満腹しました。群衆はイエスを大変ありがたいお方だと思ったはずです。今日の朗読箇所はそのことと関係があります。一人で祈っておられた主イエスは、共にいた弟子たちお尋ねになります。
1.あなたがたはイエスを誰と言うか
「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」と。弟子たちはいろいろ聞いていることを伝えます。洗礼者ヨハネだ、旧約聖書に登場する預言者エリヤだ、誰か昔の預言者が生き返ったのだ、などなど。エリヤの後継者となった預言者エリシャは多くの奇跡を行いましたので、そういった預言者が生き返ったのではないかというような憶測もあったことでしょう。そういう中で、主イエス・キリストは弟子たちに問われます。ではあなたがたはわたしを何者だと言うのか、と。神からのメシア、つまりキリストです、とペトロは答えました。
世の中の人々は、イエスのことをいろいろに言います。しかし考えてみると、現代の日本で「あなたはイエス・キリストとは何者だと思いますか」というアンケートを多くの人から取ったという調査結果があるのでしょうか。当然日本では、この聖書の中のユダヤの世界とは全く宗教事情も何もかも違いますから、同種類のものとして扱うことはできないでしょう。多くの人々がその到来を待っている、という社会と、そのような関心を全く持たない人が殆どと言っていい社会では、アンケートを取って見てもあまり意味はないかもしれません。
私たちも、自分の信じているイエス様について、今日の周りの日本人がイエスを何者だと言うかを問うよりも、イエスというお方に出会う機会を与えられて今日に至っていることを考え、そして自分にとってイエスとは何者だろうか、どういうお方だろうか、と問うことが重要です。自分はこの方を何者だと言うか、という問題は、自分と主イエスとの間にあるつながりが成り立っていることを示します。
ここでペトロは「神からのメシアです」と告白しました。メシア、つまりキリスト、それは神が特別にお立てになってこの世に送られる救い主のことです。この時ペトロは正解を述べました。しかし彼をはじめ、弟子たちはまだイエス様がメシアである、ということを十分には悟っていませんでした。それは、今日の箇所の続きですぐに明らかになります。イエスというお方が何者であるかを悟っていないことがすぐにわかってしまうのです。それでも、ペトロがこの告白をしたこと自体は、決して悪いことではなく、弟子たちは皆、これからの歩みの中で、主イエスが本当に救い主であることを味わい知るようになります。そして聖霊が後に降られることを通してやっと弟子たちは真の理解に至れるのです。
2.イエスは必ず苦しみを受け、復活される
しかしペトロが弟子たちを代表してイエスに対する信仰の告白をした後、イエスはこれを誰にも話さないように命じてから、御自分のことを語られました。もちろん、今私たちはこれを読んでいますから、この禁止命令はある時期だけだったことはわかります。その禁止命令とは、人の子つまりイエスは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されること、三日目に復活することになっていることについて話してはならない、というものでした。
主イエスについて起こるこの一連の出来事は、聖書が私たちに伝えようとしていることの内、最も重要なことであり、これを抜きにしたら、聖書の内容は一番肝心なことがないといえるほどです。ではなぜ主イエスは弟子たちにこのことを黙っているようにお命じになったのでしょうか。それはやはり彼らがまだ主イエスについての真理、イエスが世に来るべきメシアであり、しかも御自身を十字架で献げて死ぬことによって神の御計画を実現することをまだ悟っていなかったからです。自分たちがまだ十分に悟っていないことを告げ知らせても、強く証しすることができず、また強い反対などを受けても対抗する力がないからでした。それ故弟子たちが力強く主イエスの苦難と死と復活とを人々に告げ知らせるためには、主イエスの復活と聖霊降臨(ペンテコステ)の恵みをいただいてからになるのでした。
私たちもまた、主イエスが苦難を受け、十字架で殺され、そして三日目に復活されることは、必ずそうなるようにと主なる神が定められたことなのだ、ということが自分の信仰の土台にあるのだと覚えましょう。このことを抜きにしてこの世での私たちの信仰と生活は成り立たないからです。今私たちがこうして主イエスを信じて礼拝を共にしているのも、神が定められて必ずそうなることとして起こった主イエスの十字架の死と復活が土台になっているのです。
3.イエスのために命を失う者はそれを救う
そして主イエスはもう一つ極めて大事なことを告げられました。主イエスについて行きたいなら、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。私たち人間には生まれながらに自我があり自分の利益を優先し、まず自分のことを考え、自分を守ろうとします。いざという時には人よりまず自分を優先してしまうのです。そういう私たちが自分を捨て、日々十字架を負うとはどういうことでしょうか。自分の重荷を担って、なすべき務めを果たしなさいということでしょうか。まず知るべきは、十字架は処刑の道具だということです。主イエスは十字架を背負って処刑場へ向かいその十字架で処刑されました。そういうものを担っている者として日々歩みなさいというのです。この世では主イエスは権力者の座に着かず、御自分の権威を誇示するためには奇跡を行わず、この世の王になろうとはしませんでした。この世で快適に暮らし、思いのままに暮らすことはされませんでした。そしてその歩みはすべて神の御心に従うためであり、罪人を罪から救い、神のもとへ引き戻すためでした。そういう主イエスに従う者も、自分を捨てて、主イエスのように十字架を背負って日々進むというのです。つまりこの世を最もよいものとして充実させ、この世で生きることを最高とし、この世から受けるものを最も良いものとして追い求める歩みをしないということです。要するにこの世は最終的に求めるものではないからです。
イエスに従って歩むのは十字架を背負って処刑場へ行くことであり、この世で善いもので満たされようとしないわけで、それはこの世で自分の命を救おうとはしないのです。この世で自分の命を保ち救おうとするならそれを失い、主イエスのために命を失うなら、それは実は自分の命を救うことになります。主イエスに従う人は、この世では自分の命を失っているのですが、実はイエスによって救われているのです。全世界が自分の手に入ったとしても、それで自分の命を救うことはできません。かえって自分を滅ぼし失うことになります。言い換えれば、この世に自分の命を救ってもらいますか、それとも神に、その御子イエスに救ってもらいますか、という二つに一つの選択です。
主イエスに従わないならば、それはイエスとその御言葉とを恥じることになります。そうであれば主イエスも、父なる神と聖なる天使たちとの栄光に輝いて再び来られる時にその人を恥じると言われます。一度主イエスを知ったなら、そんな風に主イエスから恥ずべき者として退けられたいと願うでしょうか。このことは、言い換えると、限られた年月だけ生きるこの世が私たちに提供する者を最も大事なものとして尊び、それを追い求めて生きるか、それとも永遠に祝福された神の国の一員としていただき、栄光の神の国を求めるか、ということです。
最後に、主イエスは少々謎めいたことを言われます。今主イエスと共にいる人々の内、神の国を見るまでは決して死なない者がいる、と。これは「神の国を見る」をどう理解するかによって意味が違ってきます。この世の終わりに神の国が完成することを言うのなら、この地上で、今の状態で永久に生きる人がいることになるので、それは聖書全体の示すこととは違ってしまいます。この世で人は、一度は死にます。イエスと共にいた弟子たちは一世紀の人ですから、今に至るまで地上で生き残っているわけはありません。見えない神の国を主イエスがもたらされ、信じる者はその神の国に次々招き入れられています。そして地上の教会が姿を現し、主イエスが世にもたらされた神の国は教会として姿を現しています。それは聖霊降臨(ペンテコステ)後にはっきりと示されました。ここで言われる神の国を見るとは、弟子たちの中には初代教会に殉教した者たち、つまり主イエスのために文字通り自分の命を失う者もいましたが、中には生き延びて地上の教会が生き生きと世界宣教に出て行くのを目の当りにする者もいるということです。
こうして主イエスはこの世を尊ぶのではなく、主イエスに従い、その御国を尊んで追い求める道を歩みなさい、と私たちに命じておられます。どちらが本当に素晴らしいものか、どちらを追い求めるべきか。それは主イエスの御言葉を聞く者には明らかです。私たちは、主イエスためにこの世での命を失っても、主イエスに従って永遠の命をいただく者となるよう召し出されているのです。主イエスに従う者には、主イエスが永遠の命をくださいます。
