2025年07月20日「「主が人を全地に散らされた」」

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「主が人を全地に散らされた」

日付
説教
久保田証一 牧師
聖書
創世記 11章1節~9節

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「主は彼らをそこから散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(8,9節)。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 11章1節~9節

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  「主が人を全地に散らされた」 創世記 11章1~9節           2025.7.20

 今日は旧約聖書にあるいくつかのお話の内、人の言語に関することを教えている、普通「バベルの塔」と呼ばれる話です。小見出しに書いてあるとおりです。私たちはこの話から、今の世界がどうしてこうなっているのか、を知ることができます。このバベルの塔の話は、一12以下にアブラハムが登場して神の選ばれた民の物語が始まる前に起こった、非常に古い時代の出来事です。ノアの箱舟の出来事とともに、神が人を創造された後、人類はどのような道を辿ってきたのかを示している、とても重要な話なのです。

1.塔のある町を建て、名をあげよう
 この話の舞台は、メソポタミアのある地域ですが、「世界中」という言葉は、今の私たちが使う意味での全地球というものとは恐らく違うでしょう。著者の知る範囲での「世界中」です。地理的なことはどうであれ、この出来事によって神は人の行動にある制限を加えられたのであり、そのように定められた中で人類は活動を続けてきたのです。
 東の方から移動してきた人々がいました。ノアの時代の洪水の後、既に1500年程度は経っていたと考えられます。この時代は、10章の記事によると恐らく25節のペレグの時代であり、それは11章の系図でいうと18節に書かれています。人々はシンアルの地に集まってきます。シンアルの地とは10章10節によると、バビロニアであることがわかります。人々は高い塔を建てようとしていますから、それなりの建築技術が進んでいる時代です。レンガを作ってよく焼くこと、アスファルトを用いていること、などからも、色々な技術が既に開発されていることがわかります。アスファルトは古代から防水のため、また接着剤としても用いられてきたということです。
 人々は「有名になろう」と言います。これは名を挙げよう、という訳がありますが、そちらの方がしっくりくると思います。彼らは全地に散らされることのないようにしようと言ったのでした。主なる神は、天地創造の後、人に対して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われ、それは洪水後にも再び言われたわけですから、人間に対する神の御意志として伝えられていたはずですが、それに反することをしていたのでした。それはやはり堕落後の人間のなせる業です。最初の人アダムとエバが神に背いて罪を犯した時、神から隠れようとしました。人はやましいことがあると隠れます。そして自分を造り生かしてくださった神から離れて自分の道を自分流に進もうとし始めます。神に対してへりくだるのではなく、自分を高く上げ、神に逆らって生きられるかのように行動し始めます。実際神は人がこの世で様々なものを用いて手を入れ、加工して使うための材料と知恵をくださいましたから、表面上は地上で生きていけます。その結果として人は、このバベルの塔の建設という行動へと突き進もうとしたのでした。

2.言葉を混乱させよう
 それをご覧になった神は降ってこられ、人の言葉を混乱させることにされました。主なる神は創造主であり、たとえばノアの時に大洪水を起こしてノアとその家族以外を一掃することができました。しかし、「これでは彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6節)と言っておられます。本当に神は人のすることを妨げることができないのでしょうか。確かに主が妨げようとすればできると言えます。しかしその場合、洪水とは別の仕方で人間に大打撃を与えて、大洪水後と同じような状況に至ってしまうかもしれません。それゆえ、神は予め手を打って、人の言語を混乱させる、という手だてを講じられたのでした。これにより人は意志の疎通が十分にできなくなり、町の建設をやめたのでした。これは、実は人間にとって良かったのでした。もし主がそうなさらなかったら、町はそのまま建設され、さらに一致団結して一層大いなるものを作りあげたことでしょう。そして文明や科学の進歩は今以上に進んでいたかもしれません。しかし今あるこの世界とは異なるものとなり、世界は全く違う様相を呈していたことでしょう。しかし主はそうなることを許されなかったのでした。人間は自分たちのやることに歯止めをかけられた結果になりましたが、やはりそれは深い主なる神の知恵と摂理によってなされたことなのであり、それが人間にとっては良かったのです。人がしたいと思っていることを主が敢えて阻止される。それは主なる神が人間の行動に歯止めをかけ、人が住むこの世界がある程度の状態や環境を保てるようにしておられるからです。ところが人はそのようなことを端から悟ることはできず、自分流にこの世を築き、開発し、名を挙げようとして来たのであり、今でもそれを続けています。

3.人は全地に散らされた
 しかしこのような人間の行動に対して、主はこのバベルの塔の建設に当る人々の言葉を乱すことによって人が建設工事を続けることができなくされ、人は工事を中止して、それぞれ散らばっていったのでした。それは主が人を全地に散らされたということでした。同じ言葉を語り、一つのことについてすべての人が集中してそれに当り、事を築いていくという仕方を主が許さなかったのでした。こうして、人は全地に散らされていくことになり、そもそも主が人に与えられた、「地に満ちよ」という命令を行なってゆけるようにされたのでした。言葉が違うということは、意志の疎通に時間がかかります。言葉を巡っては、人類は多くの労苦を重ねてきました。時には征服した国の言葉を奪って、自分たちの言葉を使わせてもきたので、今でもその影響が大きく残っている国々があります。それはやはり人が主なる神に背いて罪を犯したことからきています。そして私たちもその系譜の中にいるのは事実です。
 それでも言葉が異なることによって文化も違い、考え方も違い、習慣も違ってくる。この多様性を主が与えて、互いの言語を学ぶようにもされました。そういう労力を費やすことがなく、一つの言語で世界中がまとまっていたら、一体世界はどうなっていたでしょうか。とんでもないものになっていたかもしれません。それはわかりませんが、とにかく、人が異なる言語をもって、それぞれの地に散らばっていくことは、主がなさった人に対する御業であり、そのようにして主は今のこの世界の中で人が生きるようにされたのでした。今私たちは、この世界がそういうものとして存在し続けていることをよくよく覚えている必要があります。言語も文化も習慣も違うので、争うこともあるけれども、逆に興味を抱き、尊重し、互いに学ぶこともあるわけです。私たちは主なる神を信じ、このバベルの塔の出来事を通して、今の世界の現状と成り行きを見ていくのです。
 では、主なる神様は、多くの異なる言語を人間に与えて、人を全地に散らされましたが、これから先、この世界が終りに至ることを聖書は告げているので、人の話す言葉は最終的にはどうなるのでしょうか。これについては、聖書は明言していません。だから完成した天の御国ではどんな言語が話されるのか、それはわかりません。ただ一つ言えることは、完成した神の国でどんな言語が話されるのかは別として、その内容は、「天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と言われているとおりです(フィリピの信徒への手紙2章10、11節)。それは、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソの信徒への手紙1章10節)、という主なる神の大きな永遠からの御計画に沿ってなされることなのです。全地へ散らされた人間は、話す言語は違いますが、やがてその離す内容はひとつの究極の目的へと進んでいき、キリストにあって神をほめたたえる、という一つの言葉を語れるように新しくされて行きます。今私たちはその途上にあります。そしてこのことは、先ほどのフィリピの信徒への手紙二章にあったように、神の身分でありながら人となって僕の身分になり、人の罪を十字架で償ってくださった神の御子キリストだからこそ、またキリストによってのみ、実現に至るのです。
 そして主イエスが十字架と復活の後、天に昇られ聖霊が降られました(ペンテコステ)。その時、弟子たちはいろいろな言語を語って神の御業を語りました(使徒言行録2章11節)。しかしその後、キリスト教会の福音宣教は、何か一つの言語のみでなされたでしょうか。そうではありません。それぞれの国の言葉で宣教は今日まで続けられています。聖書も各国の言語に翻訳されています。この地が続く限りはそのようにして神の国の福音、イエス・キリストによる救いの福音は世界中に語り続けられます。そして先ほど見たように、神の国の完成の暁にはそこに集うすべてのものが、一つになってキリストにあって神をほめたたえるようになる。これが神の御心であります。

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