2026年07月26日「希望、喜び、誇るべき冠」

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 「わたしたちの主イエスが来られる時、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」 テサロニケの信徒への手紙一 2章19節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
テサロニケの信徒への手紙一 2章17節~3章5節

原稿のアイコンメッセージ

 キリストの使徒パウロは、キリスト教会への迫害に熱心に当たっていましたが、旅の途上、ダマスコで天から主イエス・キリストに呼びかけられ回心へと導かれました。迫害者から、誰よりも率先して福音を異邦人に語る宣教者、使徒とされたのでした。彼はヨーロッパへの宣教にも向かいましたが、まずフィリピという都市へ入り、宣教します(使徒言行録16章)。そして投獄されてしまうのですが神に助け出されて旅をし、テサロニケへ着き、そこで宣教に当ったのでした。ここではかなりの人々が信仰に入ったのでした。そういうテサロニケの信徒たちのことを心にとめてパウロはこの手紙を書いています。そしてテサロニケの信徒たちに対する思いは大変熱く、再び会いたいと切に願っていたのでした。

1.顔を見たいという切なる願い
 パウロがこの手紙を書いたのは、紀元50年頃とされていますので、主イエスが天に昇られてから二十年も経っていない頃です。主イエスが実際に地上におられた頃の記憶を持つ人々もまだいますが、主イエスに直接会ったことのない人たちが既に非常に多くなっています。パウロも天に昇られた主イエスにより信仰へと導かれました。
 パウロがテサロニケで宣教を始めた時、ユダヤ人の会堂で人々に主イエスの受難と復活について説明し、論証しました(使徒言行録17章3節)。その際、神をあがめる多くのギリシア人、主だった婦人たちが従いました。しかしそれを妬んだユダヤ人たちが暴動を起こし、町には混乱が生じました。それでパウロと、共にいたシラスの二人は夜の内にべレアという町へ送り出されます。テサロニケのユダヤ人たちよりも、べレアのユダヤ人たちの方が素直で、非常に熱心に神の御言葉を受け入れたとあります(同11節)。というわけですから、テサロニケのユダヤ人たちは少々荒っぽい人たちが多かったようです。しかしその中でも信じた人たちはそれなりにいたわけですから、パウロはその人たちのことを心にかけていたことがわかります。
 彼はテサロニケに行こうともしていたのですが、サタンに妨げられたと書いています。これがどういうことだったのかはわかりません。何らかの妨げとなることがあったのでしょう。私たちは自分や自分の身の周りに起こったことについて、何か良くないと思われることがあった場合、一概にサタンに妨げられたとか、サタンの仕業だと簡単に言い切ることはできませんが、サタンが私たちの信仰を揺り動かそうとしてくることがあるのは、忘れてはならないことです。だから私たちは目を覚まして祈っていなさい、と命じられていることを思い出しましょう。

2.希望、喜び、誇るべき冠
 そういう状況ですが、パウロはテサロニケの信徒たちへの熱い思いを語ります。パウロたちにとって、希望、喜び、誇るべき冠、そして誉れである、と最大限の賛辞を述べています。彼らは、キリストを信じる者たちに対して厳しい迫害をする人々のいる中で、パウロたちの宣教の言葉に耳を傾けて信仰に導かれました。どんなに福音に反対する人々が力を奮ってきたとしても、天において地上の福音宣教を見ておられ、上より力を与えてくださる主イエス・キリストがおられます。そのキリストがテサロニケの信徒たちに力をお与えくださっています。彼らはパウロが去った後も自分たちで信仰を保っていかねばなりません。もし彼らが自分の力と知恵に頼んでいたとしたら、それは実に頼りないものとなったでしょう。しかし、彼らはパウロたちの働きを見ていました。彼らは激しい苦闘の中にありました(2章2節)。それは神に認められて福音をゆだねられているから行っていたことです。そしてそれは文字通り命がけであり、人の誉れを求めることなく、その命さえも惜しまないほどにテサロニケの人々に救い主イエス・キリストの福音を語り伝えていたのでした。テサロニケにいて信徒になった人たちは、そのようなパウロたちの姿を見ていましたから、そこに神の力を見ていたはずです。
 キリストを信じたら、人生の中で何か良いことがあるとか、いろいろなことがうまくいくとか、何か益となるとか、幸せな人生を送れるとか、そういうことで信仰に入ったのではなかったのです。むしろパウロたちの姿はそれとは逆のものでした。苦闘し、命がけで福音宣教に当っている。この人たちはなぜこれほどまでして自分たちの町でキリストのことを告げ知らせるのであろうか、と考えたはずです。それは目には見えないけれども天地の主である神がおられて、この世に神の国をもたらし、やがて栄光の神に国を完成しようとしておられる。そして私たちをもそこに入れてくださる。キリストの使徒と言われるパウロとその一行の人たちが自分自身をゆだねて命を懸けている福音とは、なんとすごいものだと思わなかったでしょうか。そしてそれは神が彼らを突き動かし、力を与えておられるのだ、と信仰によって見抜いたのでした。そしてそれは神が見る力を聖霊によってくださったということでした。そしてパウロたちの語る言葉は神からの言葉であり、神が自分たちに語りかけている、と信じたのでした。
 パウロは、そのようなテサロニケの信徒たちこそ、希望、喜び、冠、誉れだと言っているわけです。自分たちは使徒としてキリストから遣わされているから、どんなに迫害されても宣教をやめたりしないと思っていたとしても、力ずくで追い出されることもあります。また仲間がパウロたちを助けるために、あえて町の外へ連れ出すこともあります。そうしてパウロたちはテサロニケを去らねばならなくなりましたが、それを見てもテサロニケの信徒たちは、恐れをなして信仰を捨てるのではなく、却って神に信頼して信仰者として歩み続けていてくれる。パウロはそこに神の恵みと力が目に見える形で示されている、と思ったことでしょう。だから希望、喜び、誉れ、という普通は形として目に見えないものを挙げている中で、目に見える冠もそこに加えているのではないでしょうか。

3.苦難に遭う定めの中で励まし、信仰を強める
 その時代、クリスチャンたちはあちらこちらでなお迫害を受けており、様々な苦難に遭っていました。キリスト教会の中で最初の殉教者となったのは、ステファノという人です(使徒言行録6章8節以下)。ステファノとは「冠」
という意味があります。パウロはこの手紙を書いていて、もしかするとこの殉教者ステファノのことを思い出したかもしれません。彼はその時まだ若者で、サウロと呼ばれていました。何しろ、パウロは回心する前は、ステファノの殺害に賛成していましたし、ステファノに向かって石を投げつけている人たちが、着ている物をパウロの足もとに置いていたのでした(同7章58節)。そこ頃から二十年ほど経っています。
 そういうパウロは、今ではキリストを自分の救い主と信じて回心し、キリストの福音を宣教する者へと変えられました。その彼は、自分がこの務めを行っていくには、必ず苦しみが伴うことを知らされていました(同九章一六節)。それはテサロニケの信徒たちにも知らされていました。それでも彼らは主に従って信仰の道を歩み続けているのでした。パウロはそのような信徒たちが苦難によって惑わされてしまうことがないようにと願っておりました。
 そしてパウロはテサロニケの信徒たちのことを常に心にとめており、彼らが信仰の道を歩み通せるようにと願ってその様子を知るためにテモテを遣わして知らせてもらいます(テサロニケの信徒への手紙一 3章6節以下)。そしてパウロが願っていた通り、信徒たちは信仰と愛によって力強く歩んでいることがわかったのでした。しかもパウロが彼らに会いたいと願っているように、信徒たちもパウロに会いたいと切望していることも。この手紙を見ると、本当にパウロがどれだけテサロニケの信徒たちのことを深く思っているかが手に取るようにわかります。だからこそ、彼は信徒たちのことを希望、喜び、誇るべき冠、誉れ、という最高の賛辞をもって手紙に書き記したのでした。
 ところで、このようなパウロとテサロニケの信徒たちの関係は、特殊なものでしょうか。決してそうではないと思います。私たちがもし信仰の道を歩み続けているなら、それは教会全体にとって大変嬉しいことであり、感謝すべきことです。自分が誰かの信仰の歩みを喜ぶということが信仰の歩みには必ず生じてきます。そして逆に、自分の信仰の歩みが誰かをこのように喜ばせているということもあるのです。それは覚えておきましょう。誰かから見たら、私たちもまた、希望、喜び、誇りだと言ってもらえるのです。そんなに素晴らしい信徒ではないと自分で思う、という方もいるかもしれません。しかし、そうではなく、主に連なって兄弟姉妹たちと礼拝をし、信仰によって歩んでいる人には、必ずここでのパウロのように、その信仰を心から喜んでくれている人がいるのです。もはや地上では最年長になって、上の人はいない、という方でもそうです。私たちを信仰に導いてくれた信仰の先人たちもいます。そしてそれ以上に、主イエスが天におられます。この世では様々な苦難があり、困難なことがありますが、それらはこの世の信仰生活にはつきものです。しかし主は聖霊を送ってくださって、私たちが動揺し続けないように、信仰を強めてくださいます。その聖霊の恵みに謙虚に信頼して信仰の道を全うできるように、主は力を授けてくださいます。

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