神、主によって力を奮い起す
- 日付
- 説教
- 久保田証一牧師
- 聖書 サムエル記上 30章1節~10節
「ダビデは苦しんだ。だが、ダビデではその神、主によって力を奮い起こした。」サムエル記上30章6節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 30章1節~10節
人は誰でも弱気になったり、人の言動によってやり込められたりして、気落ちしてしまったり不安になったりして苦しむことがあると思います。今日の箇所に登場するダビデも、サウル王の手を逃れて逃亡生活をしている中でそのような状況に陥りました。ダビデはペリシテ人の中の一人の王の下に身を寄せていて、共に戦いに出陣したりしていましたが、ある時、ペリシテの将軍たちから疑いをかけられて戦いに共に出ることを拒否され、仕方なく自分の所へ聞き返して行った時のこと、それが今日の話です。
1.窮地に立たされたダビデ
今日の箇所は、6節に中心があります。この話を前に聞いたことがある、と思い出した方もあるかもしれません。「今日の御言葉」を2020年から書いていますが、この六節について、昨年の3月26日に取り上げました。ここには、人の上に立つ立場を与えられた者の特別な重荷と苦しみが示されています。ダビデたちが、ペリシテ人の王であるラキシュから与えられたツィクラグという町に戻ってくると、アマレク人によって町に火がかけられ、人々は一人残らず連れ去られていました。ダビデも兵士たちも声を上げて泣いた、とありますので心身ともに打ち砕かれるほどの大打撃だったと言えます。ダビデは、このような他民族との戦いの中で、多くの試練に遭い、困難に当たってきたのでした。このダビデの話は、彼を通して主なる神がイスラエルを立てて行かれるに当たっての出来事ですから、聖書の中ではダビデが王となって行くに際しての出来事の一つではありますが、やはり人々の間にある戦いによって、兵士たちだけではなく、当然一般の人々がどれだけ災難を受けるかということがわかります。今日のいくつかの国々でなされていることを思い出させるものでもあります。
そういうことを踏まえてですが、ダビデが窮地に陥った時に、どうしたかということを教えられます。私たちは今日、他者との命がけの戦いで窮地に陥るということは滅多にないかもしれません。しかし相手は変わっても、窮地に立たされることはあるわけで、そのような中で私たちはこのダビデのしたことに教えられるのです。
兵士たちがダビデを石で打ち殺そうと言い出しました。兵士たちは、やり場のない悲しみと悔しさを、ダビデにぶつけるしかなかったのです。「ダビデは苦しんだ」とありますが、これは他の訳では「ダビデは非常な苦境に立たされた」(聖書協会共同訳)とか、「大変な苦境に立たされた」(新改訳2017)、「非常に苦しい立場に置かれた」(フランシスコ会訳)などと訳されています。圧迫された、窮屈な中に置かれた状態を示しています。どうしてよいかわからず、そこに押し込まれて抜け出せない、という困った状況です。私たちは何かと困った状態に置かれることがありますが、それでもそこから抜け出せる手段があって、それを用いることができるなら、まだ気持ちは前向きになり、希望や期待も抱けますが、どうしたらよいかわからない、抜け出す手段が見いだせないとなると窮地に追いやられた気持ちになるでしょう。
2.エフォドを持ってきなさい
ダビデはそのような中、自分ではどうしたらよいかすぐには答えを出せなかったのですが、彼にはまだ一つの手段がありました。主に伺いを立てるという道です。エフォドとは、詳しくはわかりませんが、神の御心を問うために用いられる道具です。ダビデは主の託宣を求めました。ここでは一つの文章によって「追跡せよ、必ず追いつき、救出できる」と答えが与えられていますが、どのような形で答えが示されたのかもわかりません。しかし、この時には、このエフォドを用いることによって神の御心を問うことができるようにされていたのでした。ダビデは窮地に置かれましたが、神の御心を問う道があることを知っていました。今日の私たちには、神の御心を問えばその場で答えが与えられる道具はあるでしょうか。エフォドのような形の道具はないかもしれません。
しかしここで考えてみると、ダビデが「エフォドを持って来なさい」という前に、彼はその神、主によって力を奮い起した、とあります。ということは、エフォドを持ち出して神の御心を問おうとしたダビデでしたが、その前に実は自分の神、主によって力を奮い起していたのでした。この力を奮い起す、という表現は、はるか昔、病気になったヤコブのもとに息子のヨセフが来た際、彼は「力を奮い起して」寝台の上に座った、という所で用いられています(創世記48章2節)。自ら力づける、という表現です。これは、高齢の方々、または病気や怪我で長く寝ていたなどで体力が落ちてしまった方には、良くわかることではないでしょうか。寝床から起き上がることのために、そこにすべての持てる力をつぎ込むかのように、力を奮い起すということです。しかしここでヤコブが力を奮い起したのは、息子のヨセフが来てくれたからで、それによって彼を奮い起こせたと言えます。やはり人は気持ちがそこに向かえば、力を奮い起せるのでしょう。ところがダビデの場合、体はもちろん疲れていたかもしれませんが、この時は、体が弱っていたというよりも、やはり精神的な面でダビデは苦しんだのでした。
3.神、主によって力を奮い起す
この「力を奮い起した」という表現は、他の翻訳では、「ダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった」という訳もあります(聖書協会共同訳)。この言葉には、「支える、強くする、勇気づける」という意味がありますので、窮地に立たされたけれども主を信頼する心は変わらなかった、という意味にとることはできます。しかし私たちは、日頃特別に困ったことがない場合、主を信頼して生きているはずなのですが、いざ何か大変なこととか、それこそどうしてよいかわからない場合には、主への信頼が薄くなってしまうことがあり得ます。いつも主イエスのそば近くにいた弟子たちは、嵐に遭って舟が沈みそうになった時、主イエスが一緒におられるにも拘わらず、不安になって寝ていた主イエスを起こしたことがありました(マタイ8章25節)。そして主イエスから「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われてしまいました。
私たちも似たようなものであって、窮地に追いやられて苦しむのであり、主を揺ぐことなく信頼しているから全然動揺しない、とはならないのではないでしょうか。ダビデも、自分に仕えてきてくれた兵たちに殺されそうにまでなって、到底平然としてなどいられない状態だったことでしょう。こういう時には、もはや主により頼むしかない、ということを彼は良く知っていたと思われます。今、このような窮地に追いやられているけれども、主はこれまで自分を導き、助け、支えてきてくれたではないか。その主が私と共にいてくださるではないか、と彼は自分に言い聞かせたのだと思います。そして主により頼む者は、主から力をいただけます。
それで彼は、エフォドを持って来させ、託宣を求めました。力を奮い起させていただいたダビデは、この後どうするべきかを主に求めました。追跡すべきか、追いつけるか、と。主は必ず追いつき、救出できると答えてくださいました。そして救出に向けてダビデと六百人は出立します。そんな中、二百人は疲れすぎていて川を渡れず、そこに留まります。そして野原で、アマレク人の奴隷となっていた一人のエジプト人を見つけ、略奪して行った者たちのもとへ案内してもらい、そしてついに攻撃して奪われたものをすべて取り返したのでした(30章19節)。そして疲れて川の前で留まっていた者たちとも戦利品を分かち合うこととし、それがイスラエルの掟、慣例とされたのでした(同25節)。そしてかつてさ迷い歩いたところにいる友人の長老たちにも贈りものをしたのでした。こうしてダビデは窮地に陥りましたが、主によって力を奮い起し、ダビデを殺そうとまで思っていた兵たちの心を、奪われたものを取りかす方へと向け、新たに一つの思いへと導いたのでした。そして戦利品を分け合うという良き慣例をつくり、贈りものをするという誠実さをも見せたのでした。それらと共に、エジプト人に出会ったということもまた、主の導きのうちにありました。ダビデは、一連のことを通して、力を奮い起させてくださったのは主であり、その上、その後具体的にどうしたらよいかも示してくださったことを目のあたりにして、一層主に信頼を寄せて進めるようになったのです。私たちは今日、エフォドで託宣を求めることはありませんが、すべてをご存じの主イエスがおられることを知っています。私たちも、我が神、主によって力を奮い起させていただけます。この方は、死を通り越して復活されたのであり、信じる私たちをも永遠の命へと導いてくださる主であられるからです。
