束縛から解き放つ
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- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 13章10節~17節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」ルカによる福音書13章16節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 13章10節~17節
私たち人間は、できる限り自由に過ごしたい、という気持ちを持っているのではないでしょうか。何かに縛られているのは誰でも嫌なものです。その相手は実に様々なものがあると思われます。自分を束縛するものが、人間であったり、何かの組織の決まり事だったり、あるいは自分自身で決めたことだったりする場合もあるかもしれません。今日は、あるものに束縛されていた一人の女性が、救い主イエス・キリストによってその束縛から解かれた話が示されています。私たちもまた、自分は何に束縛されていたのだろうか、ということを省みさせられます。
1.18年間、腰が曲がったまま伸ばせない女性
イエスのこの時代、イスラエルでは安息日(土曜日)には、人々はシナゴグと呼ばれる会堂に集まって神を礼拝していました。エルサレムの神殿では犠牲が献げられますが、その際には罪の贖いのために犠牲の動物が屠られて血が流されます。しかし通常、イスラエルの人々は町々にある会堂に集まって神を賛美し、聖書の朗読と専門の教師によるその説き明かしが行われ、祈りが献げられました。イエスもしばしば会堂で聖書を朗読し、説き明かしをされました。会堂は人々にとってユダヤ人共同体のまとまりを示すものでした。ヨハネが福音書で伝えていますが、生まれつき目の見えない人をイエスが見えるようにしてあげた時、イエスに反対するユダヤ人たちは、イエスをメシア=キリストだと公に言い表す人がいれば、会堂から追放すると決めていました(ヨハネ9章22節)。会堂から追放されれば、普通の社会生活が送れなくなってしまいます。それほどに人々の生活の中では大きな位置を占めていました。
主イエスは、ある安息日にある会堂で教えておられます。そこに礼拝に来ていた一人の女性がいました。腰が曲がったまま伸ばすことができなかったのですが、それは病の霊に取りつかれていたからでした。このようなことを聞くと多くの現代人は、これは大昔の人の考えであって、単に背中が曲がる何らかの病気にかかっていただけだろう、というかもしれません。しかしこのあと、主イエス御自身が、この人はサタンに縛られていた、と言われましたからやはりただ単なる病気ということではなかったのでした。
そして覚えておくべきことは、彼女はイエスに癒してもらいたくてこの会堂に来ていたわけではなく、さらには、腰が曲がったままで伸ばせないという大変苦しい状態であったにもかかわらず、神を礼拝する信仰を持ってこの十八年間を過ごしてきたということです。神を信じ、あがめ、礼拝をずっと続けてきた彼女でしたが、神は彼女に取りついている病の霊を追い払うことはなさらなかったのでした。むしろ、イエスと今この時に会堂で共にいることを通して、御業をなさったのでした。長い年月ですが、彼女はイエスによって解き放たれる時へ向かって歩み続けてきたと言えるのです。
2.安息日の癒しに腹を立てた会堂長
主イエスが「婦人よ、病気は治った」と言ってその上に手を置かれると、立ちどころに腰がまっすぐになり、彼女は神を賛美しました。それを見た会堂長は、安息日にイエスが病人をいやされたことに腹を立てました。安息日には何の業をもしてはならない、と十戒で命じられていますので、彼はそれを当たり前のこととして考えていたのでした。
安息日には、神が天地を創造されて休まれたように、休みなさいと命じられています(出エジプト記20章)。しかしその戒めをみると、まず安息日は聖別しなさい、と言われています。そのためにいかなる仕事もしてはならない、と言われているのです。確かに旧約聖書の話をみると、安息日に薪を集めようとした人が厳しく処罰されたことがありました(民数記15章32節)。非常に厳格な戒めとして人々は受け止めて守ってきたのであって、この会堂長もそうでした。しかし、そうやって厳格に守ってきたものの、会堂長も含め、イエスに反対する人々は、安息日であろうがなかろうが、腰の曲がったこの女性の病をいやすことはできませんでした。
そのような中、イエスが会堂での礼拝でこの女性をいやしたのを見た際、彼が言ったのはイエスに対する批判の前に、直していただいた人に向かって、安息日以外の働くべき日に着て癒してもらうがよいと言ったのでした(14節)。
しかしこの女性は直してもらいにやってきたのではなくて、ただ神を礼拝するために会堂に来ていたはずです。18年もそのままであったけれどもずっと神を信じて生きていた人です。
3.主イエスは彼女をサタンから解き放たれた
主イエスは、この会堂長に対して、安息日であっても、だれでも家畜に水を飲ませるために、飼い葉桶から解いてやるではないかと言われます。それは家畜の命を守るために大事なことであって、それは飼育という仕事だから安息日にはしない、という人はいないと。それは当たり前のこととして行われていました。それは家畜を育てるものとして当然のことです。しかし、主イエスはこの18年間腰を伸ばすことのできなかった人は、サタンに縛られていたのだ、と言われます。サタンがなぜそのような状態にこの人を陥らせていたのかは、私たちにはわかりません。しかしただ一つ言えることは、この人は18年もの間、不自由な状態に置かれてきたものの、今この時にそのような束縛された状態から解き放ってくださる主イエスに出会うその時へと向かって生きてきたのでした。それは、本人が意識していたわけではありません。まさかこの方が自分をこの状態から解き放ってくださるとは思ってもいなかったことでしょう。しかし彼女は直していただき神を賛美したのです。
ところでこのサタン=悪魔はいったい何者でしょう。サタンはしばしば聖書に登場します。時にその言葉が福音書にも記されます。彼らは何をするかというと、人の罪をあげつらうこと、神に告げ口をすること、人を罪の中に留まらせ、神に立ち帰ることを邪魔し、肉欲に従って神に逆らうことへと人を誘います。その存在は旧約聖書の時代からずっと示されてきていますが、神はその存在を直ちに滅ぼすことをなさらずに、ある程度活動することを許しておられます。私たちは聖書がそのようにこの世界の状態を告げていることを知っておくべきです。最初の人アダムが悪魔に誘惑されて神の戒めに背いて禁じられていた木の実を食べてしまいましたが、そのようにして人に罪を犯させ、神に背く方へと連れ出そうとします。神がサタンを直ちに滅ぼさないでおられるのは、神のお考えがあるからです。私たちは、そういう存在があるこの世界ではあっても、その中で神が御言葉と聖霊によって私たちをお守りくださり、宣教を通して人をサタンの束縛から解き放つお働きをしておられることを知り、神に信頼するものです。この世には様々に人間からすれば理不尽に見えることがいくらでもあります。ある人には不幸が次々に降りかかり、そうかと思うと他方、とても良い生活環境や健康な体が与えられて、時には裕福に、何不自由なく暮らせるような家庭環境に生まれ育つ人もいます。確かに人間的に見れば不公平なようにすら見えるのです。それらの一つ一つの理由は私たちには隠されています。しかし、すべてを支配し、人の命もこの世の動向も、一切のことをご存じで、起こり来ることについてすべてを御心の内にお考えになっている神がおられる、ということを私たちは信じます。
そして主イエスは、その神を私たちに示す方としてきてくださいました。そしてこの女性がサタンに縛られていた状態から救い出していただいたように、今こうしてこの世を生きている私たちもまた、サタンのもたらした罪による束縛から解き放ってくださいます。その束縛とは何か。それは私たち人間が生まれながらに持っている、罪と死と滅びです。私たちはそれを自分で選び取った覚えはないのですが、すべての人間に負わされているものです。そしてそのままでは私たちは皆、その束縛から自力で脱出することはできず、縛られたままにこの世を過ごすしかありません。もちろんそのようなことを聞くと、自分はそのような者によって束縛されてはいない、と主張する人はいるでしょう。しかしそれが、神が私たちに告げておられることで、現に束縛されているからこそすべての人は死を迎えるのです。
そして、神のもとから来られた神の御子イエス・キリストは、私たちを罪に縛られていた状態から解き放ち、死と滅びから救い出してくださいます。今日のこの話はイエスがそういう方であることを私たちに示しています。私たちはこの世では、肉体はどんどん衰えていき、やがて最期の時を迎えます。しかし主イエスに結びついているならば、その最期の時、死も滅びではなく、命への入り口になります。そして父なる神と御子イエス・キリストは、私たちをその死と滅びから救い出すべきであり、解き放つべきである、とお考えになっておられるのです。私たちが死の中に捕らえられ、縛られた状態でいるのではなく、束縛から解いてやるべきだとお考えです。そのためにイエス・キリストは世に来られ、さらに聖書を通して時代を超えてずっと語りかけ、呼びかけ、命の主なる神のもとへと立ち帰るようにと招き続けておられるのです。私たちは、生まれながらにいずれは死ぬという定めの中に置かれています。しかし救い主イエスは、その死を超えて私たちを新しい命に生かすことがお出来になるのです。
