宝はキリストの内に
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- 久保田証一牧師
- 聖書 コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 コロサイの信徒への手紙 2章1~5節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
私たちは、今日もこの聖書を開き、神の御心を聞こうとしています。この手紙を書いたのはキリストの使徒パウロですが、これを通して主なる神は、今の時代に生きる私たちに、御自身の生ける御言葉を語っておられます。そして今生きている私たちに、御自身の御心を示してくださっています。
1.労苦して闘っている
コロサイは、今のトルコの南西部にあり、ラオディキアへは西へ20キロメートルほどの距離です。地中海からは150キロメートルほどのところです。有名なエーゲ海には西へ向かって200キロメートルほど、エフェソからは東へやはり200キロメートルほどのところです。コロサイの教会は、おそらくパウロがエフェソにいた時の宣教の結果誕生したのだと想像され、異邦人が多くを占めていたと思われます。そして、いくつかの問題もあったようで、
それが手紙の文面に現れています。人間の言い伝えに過ぎない哲学に影響され(2章8節)、食べ物や飲み物について、また暦について(同16節)、或いは人の作った規則等に惑わされている人たちがいたようです(同22節)。
この手紙が書かれたのは、紀元60年代の初期ではないかとされています。
この手紙を書いた著者のパウロは、キリストの使徒としてあちらこちらの町で宣教活動をし、教会を生み出す働きをしていました。この現在のトルコ地方でも大きな働きをしてきたのでした。彼はまだあったことのない人たちも含めて、多くの人々のために労苦して闘っていると言います。
パウロがしていることは、イエス・キリストによる救いの福音をより広い地域に、より多くの人々に告げ知らせることです。その際、労苦しての闘いが伴う、というのですが、何故闘いなのでしょうか。それはキリストの十字架と復活を告げ知らせると、それを否定する人たち、またはあざ笑う人たち、邪魔をする人たちが起こってくるからです。パウロはいろいろな町で宣教しましたが、石を投げつけられたことがありました。それどころか殺されそうになったこともあり、復活のことを語ればあざけられもしました。逆に、神々の一人だと思い込まれてしまい、いけにえを献げられそうになったことがありました。とにかく彼の宣教には反対と迫害と危険が伴い、命がけでもあり、心身共に労苦の絶えない日々だったのでした。
それでも彼がこの務めを続けているのは、イエス・キリストから直接命じられてゆだねられた働きだったことはもちろんですが、彼はその務めの中にある働きの意味自体を大事にしていたのでした。その一つことは、福音を聞いた人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられることです。特に、愛によって結び合わされる、という点を考えるとこれは大変重みのあることです。まず誰の愛かといえば第一に、主なる神の愛です。神の愛がキリストによって選ぶという形で主の民に示され、十字架で罪の償いをするために御自身を献げる、という仕方でこれ以上ない人に対する神の愛が示されました。その愛によって罪の赦しをいただいた者は、同じ主に連なる者たち同士、愛によって結び合わされます。直接にその人と結びつくというよりも、間にキリストがおられて、同じキリストを教会のかしらとして仰ぎ、信頼する者同士として愛によって結び合わされるのです。
2.神の秘められた計画であるキリストを悟るように
そして、もう一つのこととして、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになることだ、とパウロは言うのです。キリストは、神が天地創造される前からその独り子として、父なる神のふところにおられた方です。つまり永遠からおられる方です。神はお定めになった時に、この世にキリストをお遣わしになります。それは既になされました。キリストはただ信仰深いユダヤ人だったのではなく、元々神が世に遣わそうとしておられた特別な存在です。そしてキリストという方がどういう方であるかを悟ると、神のお考えがわかるのです。そのことは今私たちが手にしている旧約聖書の預言者たちも予め告げ知らせていました。だから、キリストであるイエスがこの世にお生まれになったのは、何の予告もなく、いきなり誕生したというのではなく、ユダヤのベツレヘムで生まれること、一人の男の子として生まれること、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君、とまで呼ばれるほどの存在である、ということが予告されていたのでした。このようなことが一人の人に当てはまるということは、あり得ない、といってもよいことです。しかしそれが当てはまるのがナザレのイエスと呼ばれる方でした。私たちの主イエス・キリストです。
3.知恵と知識の宝はすべてキリストの内に
そして、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れている、とパウロは言います。隠れている、ということはぱっと見れば誰にでもわかる、というものではないということです。世の中には、人が宝だと思うものはいろいろあると思います。人によって宝が何か、ということも違うでしょう。しかし最近は金の価値が上がっていると聞きましたが、金のようにある程度は多くの人が認める宝、というものもあります。ダイヤモンドのような宝石もありますが、それらはやはり神の造られたものですから、美しさを発揮している、と言うことはできます。神は鉱物に美しさを与えましたが、鉱山から掘り出したままだと、輝きを発することがなく、ただの石に見えます。それを精錬していった後で輝きを発し、非常に美しいものとなります。そういう宝石なども、神はある意味では隠しておられますが、人間は手を入れることで人間共通の価値判断によって高価なものとされています。
価値あるものは、初めからキラキラ輝いていないで、掘り出して磨きをかけることで輝くようになる。これもまた神の知恵でしょうか。そして私たち人間にとって、最も貴重な宝というべき方がキリストであられます。キリスト御自身が私たちにとっては宝と言ってよいのですが、パウロはキリストの内に宝がある、と言います。しかもそれは知恵と知識の宝です。知恵と知識。一般的に言ってこの二つを備えている人は、世の中で評価されます。時には多大の尊敬を受けるでしょう。しかしキリストの内にある知恵と知識の宝は、生まれながらの人には残念ながら正しく評価することはできません。なぜなら、これは神に教えられなければ人は誰も悟ることはできないからです。
使徒パウロは、「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマの信徒への手紙11章33節)、と書いています。神が、御自身に背いた人間の罪を赦そうとされるその御心において、どうすることによってそれが可能なのか、を神はお定めになりました。それは、神の独り子である御子イエス・キリストを世に遣わし、多くの人の罪を担って十字架にかかり、罪のない神の御子が罪の裁きを受けて死ぬことによって罪の償いを成し遂げる、という道を神は取られました。そしてそれ以外に、神に対して罪を犯した私たち人間を赦す道はない、ということも言えます。いくつかある罪の償いの方法の内の一つとしてその手段を採択したのではなく、それ以外には、私たちの罪の償いと赦しの道はありませんでした。
そしてさらに、十字架で死なれた神の御子は、復活されます。それによって罪の結果もたらされた死の力を打ち滅ぼすことになりました。もしも神の御子キリストが十字架で死に、そのままで終わったとしたら、キリストは罪の力によってもたらされた死そのものに飲み込まれてしまったということです。しかしそれはありえないことでした。
これが神の内にある秘められていた救いの御計画です。それはキリストによって実現しました。こんな深い御計画は、人間の心には浮かびません。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心の思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙一 2章7節)、とパウロが書いている通りです。
主イエス御自身もたとえで教えられました。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイによる福音書13章44節)。このたとえを話された主イエス御自身こそ、私たちが持ち物を売り払ってでも手に入れたい宝です。
そこには神の知恵と知識が豊かに満ち溢れています。ところが人はその宝がどれだけ貴重で、持ち物を売り払ってでも手に入れるべき宝であることに気づきません。一寸やそっと素晴らしい宝ですよ、と言われても掘り出そうとしません。生まれながらに頑なです。持ち物を売り払ってまで手に入れようとはしないのです。しかし手元の財産は、他のことに次々費やしていきます。この世で多くの人が宝だと思っているものは、段々と色褪せます。しかし畑に隠されていた宝を見つけ出すのには、この世に生きている限り遅すぎることはありません。そんなに価値のある宝なら、掘り出してみようか、という気持ちになったとしたら、その人はもうキリストという宝に引き付けられています。有効召命の発動です(ウェストミンスター小教理問答問30、31)。神によって引き付けられ、神の秘められた計画であり、私たちに永遠の命と喜びと祝福をもたらすキリストという宝に行き着き、その宝をいただけるのです。
