2026年06月14日「今の時を見分ける」

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今の時を見分ける

日付
説教
久保田証一牧師
聖書
ルカによる福音書 12章54節~59節

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 「どうして今の時を見分けることを知らないのか」 ルカによる福音書12章56節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章54節~59節

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 救い主イエスは、地上に火を投ずるために来られた、と驚くべき言葉を語られました。それは、私たちの命と罪の問題について、究極の問いを投げかけ、そして主イエスに従うかどうかで命か死か、救いか滅びかが決まるからです。そして結局は人が神に対してどのように応答するか、という問題に人を直面させるからでした。そしてそれは人の間に、どんなに親しい間柄でも究極的には分裂と対立をもたらすのだ、と主イエスは言われました。

1.空模様を見分けることは知っているのに
 次に、主は群衆に向かって話し始められます。私たちは空を眺めて雨や風、気候の変化を察知します。ここで西と言われているのは地中海方面、南風はエルサレムから見ると50キロメートル以上南の方にあるネゲブの荒野から吹いてくる熱風のことです。天気予報はどこでも行われますが、特に農業に携わる方々は、雲や風の変化で少し先の天気の変化を読み取っておられると思います。私たちも大体は雲行きを見ればわかります。現代では天気予報もスパコンにより、かなりの精度が期待できるものになっています。主イエスの時代とは比べ物にならないでしょうが、ではその時代を見分けることはできているのか、と主イエスは問うておられます。イエスは目の前の群衆に向かって、あなたがたは空や地の模様は見分けるのに今の時を見分けることはできていない、と。
 今日の私たちはどうでしょう。今の時代を見分けることはできているのでしょうか。イエスと同時代の人々よりも、現代人は、歴史の中で起こった様々なことを歴史から学んでいるはずです。しかし、やはり私たちもこの時代の人々と同じように、自分たちが生きている時代のことを見分けることはできていない、と知るべきであります。

2.今の時を見分けることを知らない
 現代では、情報の伝わり方はこの時代の何百倍、何千倍も速く、広く伝わります。その情報量も途轍もないものです。世界情勢も専門家が説明してくれます。各国の指導者たちの言動を分析して、今後どうなるかの見通しを立てます。今後の政局もいろいろに分析がなされています。しかし、ここでイエスが言われるように今の時を見分けることはできていない。現代科学では聖書が語る時代の見方はしないからです。むしろ宗教に関わることは避けるか無視して聞こうとはしないのが現代社会では当然なのかもしれません。科学者の中にも神を信じる人はおり、宗教の観点から戦争や世界情勢について分析をしている人たちもいます。宗教絡みの対立は、その背景を説明できるからです。しかしここでイエスが言われるのは、そういう宗教ごとの対立の背景とか、歴史的事情を把握するだけのものではなく、この世界と神との間にある「時」のことです。私たちは神の前にどういう時の中に置かれているのかという問題です。
 私たちはこの世で生活していますが、やがてこの世の生を終える時も来ます。ここで主が言われる時とは、そういう個々の時のことではなく、すべての人が置かれている、イエスがこの世にもたらされた神の国へと向かう途上にある「時」のことです。使徒パウロは書きました。「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソの信徒への手紙5章16節)。この「悪い時代」は今の時代にまで続いています。同時にそれは「終わりの時代」でもあります(ヘブライ1章2節)。イエスが地上に来られて以来、この世は終わりの時代に入っており、それは新約の時代でもあります。イエスによって神と人との新しい契約の時代に入っているのです。
 そういう時代に既に入っていることを知らねばなりません。それは、何が正しいかを自分で判断することにつながります。この問いは、ただ一般の世界で行われていることを正しいか悪か判断するという単純な話ではなくて、あなたを訴える人と道の途中にあると言われるような状況下でのことです。

3.道の途中にあることを知り、和解せよ
 そうすると、あなたを訴えているのは誰か、という問いが起こってきます。私たちを訴えているのは、他でもない、神ご自身です。ユダヤの人々に対して、イエスは神の御子としてこの世に生まれ、人々の前に姿を現し、そして御自身が本当に神のもとから来られたことを証しするために多くの人の病気をいやし、悪霊を追い出して御自身の力と権威を示されました。ところが多くの人々はそれらの御業を見ても素直にそれを受け入れず、イエスを認めようとはしませんでした。そういう状態を指して、あなたを訴えている人と共に裁判官のもとへ向かっている状況なのです。
 主イエスは、正しいことを自分で判断しないのか、とか途中で仲直りするように努めなさい、と言われます。途中で仲直りするのは、相手が人間ならまだしも、相手が神である場合どうでしょう。神は憐れみに満ちた方であり、罪を赦す方だと言われているのだから神は赦してくださるのだ、と言えるでしょうか。実際、赦しは神のもとにあり、慈しみも、豊かな贖いも主のもとにある、と詩編にあります(130編4、7節)。しかし、神が私たち人間の罪を赦すという場合、ただ何の償いもなしに赦すのではありません。人間同士だと、お互い様だからただ赦す、ということがありますが、人間同士でもきちんと償わねばならない場合はあります。人の家に損害を与えたら、償わねばなりません。神様が憐れみ深く、罪を赦す方だといっても、どこかで罪の償いがなされていなければならないのです。
 だから主イエスは、途中で仲直りができていないと、あなたは牢屋に投げ込まれて決して出てくることはできないと言われます。これは、この世の刑務所のことではなく、神の法廷で罪ありとして裁かれ、刑罰を受けねばならない、と言っているのです。そして実はこの状況は自分の力では抜け出せません。自分で判断し、仲直りしなさい、と言われると自分たちの努力次第で何とかなりそうな感じがあります。しかし実はそうではない。私たちは自分が神の前に罪ある者で、何とかして償わなければなりません。そしてイエスは、今話しておられるイエス御自身に目を向け、その御業を見聞ききして判断しなさいと言われるのです。そして自分がどうすべきか判断しなさい、と。
 私たちは、このイエスの時代からはるかに隔たった21世紀に生きています。しかしイエスが語られる御言葉は、時代や地理的距離を超えて、私たちにも直接語りかけています。私たちは生まれながらに神と仲直りしなければならない状態にあるのです。では神と人とは敵対関係にあって相争い、攻撃し合っているのでしょうか。今、国同士でそういう関係にある国々があります。しかしそれらはみな、人間として対等な関係にあります。軍事力や経済力や国土の広さなどは違うとしても、世の国々は皆対等です。ところが神と私たちは対等ではありません。私たちは神に造られた者で命を与えられ、この世で生きるために必要なものを神自ら備えてくださり、人には罪があるにも拘わらず、良きもので養い、喜びや楽しみすら与えてくださっています。そしてこの世で生きている間に、神と和解できるように、独り子イエスを遣わしてくださいました。イエスの内に神の憐れみと慈しみと罪の赦しと償いがすべて示されたのでした。イエスは十字架にかかって、私たちのために償いをしてくださったのです。
 私たちは今のこの世界の中で、どのような時かを見極めたいと思うでしょうか。旧約聖書の時代から、この世には戦争(紛争・人の争い)、飢饉(自然災害)、疫病(伝染病・病気)が人を苦しめるものとして存在していました。これらは今も人を苦しめています。また、聖書は終わりの時に権力の座に就いて自分は神だ、というものすら出てくると予告しています(Ⅱテサロニケ2章4節)。そして段々と不法がはびこり、人々の愛が冷えると(マタイ24章)。それは21世紀の今こそ実現しているのでしょうか。しかし似たようなことは人類の歴史の中で繰り返されてきました。昔も今も人間の根本的性質は変わっていません。だからヒトラーのような人が20世紀に登場しても、それが自分は神だ、と宣言する者に当てはまるとして、聖書の予告が実現しつつある、と簡単には言えないのです。
 私たちは、現代社会で起こる様々な出来事を見聞きして、具体的な世の終わりの時を予測せよと命じられているのではなく、イエスが世に来られて以来、どういう時代に入っているかを見極めよ、と言われているのです。パウロはアテネで宣教した時に言いました。これまで人々が偶像を盛んに作ってきたが、神はその無知な時代を大目に見てくださったのだと(使徒言行録17章30節)。しかし「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と。今の時はそういう時だと神はイエスにより示し、使徒も悔い改めるべき時だ、と命じています。
 この人類の諸活動はどこへ向かうのかと探求するのは悪いことではありません。人間の文化や活動、産業・科学の発展は神の祝福でもあります。しかし神は、まず人は自分の罪を認めて悔い改めよ、と命じておられます。今はそういう時として見極めよ、というのが主の御心なのです。私たちも今の時を見分け、正しいことを判断し、神がその御子イエスによって示された和解の御手を受け入れよと命じられています。今の時を見分けるためにすべき第一のことがそれです。そしてその和解のための御手を受け入れることは、私たちに真の救いと幸いと命をもたらすのです。

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