地上に火を投ずるために
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- 説教
- 久保田証一 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 12章49節~53節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」ルカによる福音書12章49節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 12章49節~53節
主イエスは、どこから、何をするために来られたのか。これは実に大事な問題です。イエスはこの世の人間の一人として神に従い、神の御心を追い求めて祈り、そしてある信仰に基づく決意をして世に対していろいろ語り始めたのではなく、天つまり神のもとから来られて神の御心を示すために人となられました。即ち神の御子だと聖書は私たちに教えています。今日の箇所では、主イエスは地上に火を投ずるために来た、と言われています。
1.火を投ずるとは
火を投ずるとは何を意味するのでしょうか。火は明かりでもあり、熱でもあります。主イエスは、闇の中に光を照らすために来られた方である、とマタイによる福音書は示しました(4章16節)。しかしここで主イエスが語っておられるのは比喩的な言い方です。光を照らすための火ではなくて、厳しい裁き、審判をもたらすための火については、旧約聖書では例えば預言者エリヤが偶像の預言者と対決した時、天から火が降りました(列王上18章38節)。
しかしここで主イエスが言われる火は、分裂をもたらす火です(51節)。火種としての火は、論争や紛争、対立、分裂をもたらすきっかけになります。主イエスはそれをもたらすために世に来られた、と言うのでした。しかし、これは主イエス・キリストが救い主としてこの世に来られたことの目的に沿うものなのでしょうか。クリスマスに私たちがしばしば朗読する個所としてイザヤ書九章があります。そこには、一人のみどりご、男の子が生まれる、と預言されています(5節)。「権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と言われています。また、主イエスがエルサレムに入場される時にロバの子に乗られます。ルカによる福音書ではまだ先のことですが、その時のことをゼカリヤが預言していました。エルサレムの王が来られる時にはロバの子に乗って来て、そして諸国の民に平和が告げられる、と(9章9、10節)。またイエス御自身も、「わたしは柔和で謙遜なものだ」と言われました(マタイによる福音書11章29節)。また「平和を実現する人々は、幸いである」とも言われました(同5章9節)。さらに、兄弟との仲直り、訴える人との和解も命じておられます(同5章24、25節)。こうしてみると、主イエスが火を投ずるとか、分裂をもたらす、と言われることが食い違うかのように見えます。しかし、そういうわけではありません。イエスは平和をもたらすためにこられたのだと弟子たちも思っていたはずですが、イエスはそうではなくて分裂だと言われます。それは、私たちが通常考えているような、地上にもたらされる平和と、イエスがもたらそうとしておられる平和の意味が異なっているからです。
2.イエスが受ける苦しみ
主イエスは、確かに平和をもたらすために来られました。しかしその平和はイエスが大変な苦しみを受けることによってもたらされるものです。イエスはそれを受けねばならない洗礼、と言われます。一般的にも何々の洗礼を受ける、という表現を使う場合があります。スポーツ選手の新人が一流選手の技能の前に打ちのめされるというようなとき、プロの洗礼を受ける、と言ったりします。そうやって段々と上へと這い上がっていくわけです。ここでイエスが言っておられる洗礼は、一度必ず通らなければならないものであり、それは試練であるけれども、そこを通ることで初めて必要な所へ到達できるものだということです。
そしてこれはイエスに非常な苦しみをもたらします。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われた一言にそれが示されています。その火、分裂をもたらすことになる火を投ずることは、イエスの十字架の苦しみを示します。イエスはそれを受けるためにこそ世にお生まれになったのですが、それは他の誰にも担うことのできないものであり、それは人が担うことなど本来できないほどのものです。それは神から見捨てられることをも意味しています。イエスは十字架につけられる前、ゲツセマネの園で祈りを献げられました。その時にできることならこの杯を取りのけてください、とまで父なる神に祈られました。それほどまでにイエスにのしかかって来る重圧であり、それは多くの人の罪をその身に担って死ななければならないからでした。しかしイエスはそのためにこの世に来られたのですから、その務めを担われたのです。そしてそれが人々の間に分裂をもたらすことになるのでした。
三.平和ではなく、対立をもたらす
主イエスは平和をもたらすためにこの世に来られました。それは真実です。しかしどういう意味での平和か、が問題です。単に人と人、国と国が平和に過ごす、ということだけを目指しているのではありません。ただ仲良くする、お互いに尊重し合う心をもって、お互いの利益を侵害しないように努める。そういう人と人の信頼に基づく努力で、真の平和が築けるのか否か。そしてある程度はそれが実現したとして、それは永久にその状態を保てるのか、という問題も起きてきます。この世の現実に目を向けた時、それは残念ながらできていない、人にはできない、ということが明らかになっています。そんなに悲観的にならず、しぶとく忍耐強くその努力を続けてみてはどうだ、という声が聞こえてきそうです。しかし聖書は人間の現実を私たちに突きつけます。私たち人間はその力を失っていると。その状態を克服するには、イエスによって神との間に和解をもたらしていただかないとそれは実現しない、と。イエスの意十字架の死は、私たちの罪の償いであり、神との間に和解と平和をもたらしてくれるのです。
ではイエスはなぜ世に分裂をもたらすのでしょうか。人が五人いたなら二人は三人に、三人は二人に対立して分かれると言われました。なるべく仲良く、お互いに受け入れるのとは反対です。イエスがこの後、苦しみを受けて十字架につき、そしてその務めを全うされるならば、人々の間に分裂が生じます。イエスがなさったことを、神から与えられた恵みと信じて受け入れ、イエスにより頼む人々が片方にいます。他方、それを受け入れず、従おうとはしない人々がいます。それは信仰の世界のことなのだから、人の自由であり、好きにしたらよい、というのが世の考えでしょうか。しかし主イエスはそのようにはなさいません。イエスにつくか、そうではないか。それはこの世において神に従うか、そうではないか、という対立であるからです。
神を信じない人、或いは宗教を嫌う人々はおられます。神を信じているのなら、何故宗教の名の下に戦争を行うのか、という言葉を聞きます。歴史の中の事実として、それは確かにあります。世の権力者たちが宗教の名のもとに信仰の世界とこの世の権力の両方を手にして威厳を高め、力を誇示しようとしたこともありました。
それに対し、聖書の教えは人間が神の前にいかに罪を犯し、背いた状態になっているかを明らかにします。宗教の名の下に権力を奮って戦争を行うことの中にある、人間の罪を暴き出します。そして主イエスの到来は、最も身近な所で生きている人と人との間に分裂や対立をもたらす、というと物騒な教えだ、と見る人も出てくるかもしれません。しかし、何故そうなのかを知る必要があります。主イエスはいたずらに争いや対立や分裂を世の中にもたらそうとしておられるわけではありません。それなのに、なぜこのように言われるかというと、イエスのもたらされたものは究極の事柄に関するものだからです。人はどうでも良いことのためには争わないでしょう。二つあるものを二人で分けなさい、と言われた時、お互いにどちらでもよければ争奪戦にはなりません。しかし、重要なこと、生活や命に関わることであればどちらでもよいとはいかなくなります。かけがえのないもの、それが自分の大切な物や人だったりすればどちらでも良いとは言えません。
救い主イエス・キリストは、命の道を選びなさい、と言われます。狭い門から入って永遠の命に至る道を進みなさい、と命じておられます。偶像ではなく、永遠からおられるただ一人の真の神を崇めなさい、と言われます。それはある場面では必ず対立や分裂をもたらします。いくら親が拝んでいる神々でも、自分は偶像の神は拝みたくない、何故なら真の生きた神だけを礼拝したいからだ、となれば対立して分かれます。イエスはどちらでもよい、大した重みのないものをもたらされたのではなく、命に関わること、神の前での自分の罪の問題、この世と死んだ後の世のどちらについても、どのようにいられるか、についてそれこそ火を投ずるために来られた方だからです。
私たちは、神の前にいずれ申し開きをしなければならない時が必ず来ます(ペトロの手紙一 4章1節~6節)。救い主イエス・キリストはそれほど重要な「火」を私たちの前に投じておられます。イエスの十字架の前を素通りしますか。イエスの十字架には依り頼まず、他の神々に頼みますか。人の創造にも世界の創造にも携わっていない自分と同じ普通の人間の言うことに信頼して、命を預けますか。それとも神の御子として、永遠から父なる神のもとにおられて、そういう方として私たちを罪と死と滅びから救う方として来られた方を信頼しますか。この究極の問い、即ち「火」を、主イエス・キリストは私たちの前に投じておられるのです。
